2024-03

2005・3・19(土)ベルリン(2)フェストターゲ「パルジファル」

      ベルリン州立歌劇場  4時

 2階中央3列目の席からは、視覚的には見易い場所だが、オーケストラはかなり生々しい響きに聞こえる。バレンボイムの指揮が以前よりもアクセントが強く、シャープな印象になるのはそのためだろうか。
 パルジファルが白鳥を射た後で得々と答える場面でのホルンの強奏といい、クリングゾルとクンドリーとの皮肉たっぷりな応酬の箇所でのクラリネットのヒステリックな絶叫といい、まるで表現主義音楽のようにさえ思える。

 全体にゴツゴツした音楽づくりで、ワーグナーの音の厚みをわざと削り落したようにも聞こえるのだが、これは1階で聴いたら印象が変わっていたかも知れぬ。しかし、弦楽器群のエスプレッシーヴォはそれにふさわしく打ち出されていることが感じられたのだから、あながち席の関係でもなさそうだ。

 第3幕前半は極度にテンポが引き伸ばされているが、こういう遅いテンポは演奏家の自己満足にしか思えない。その所為で、終曲はさほど盛り上がらない。

 ベルント・アイヒンガーの演出は、巨大な円柱状の樹のみが立つ冒頭の森の場面は短調で退屈なものだったが、「時間と空間の移動」の場からは突如として動きを活発にし、前奏曲後半から出現していた宇宙の映像が激しい変化を伴って多用される。
 めまぐるしく回転反転する2枚のスクリーンには、ピラミッドや中国の宮廷のようなシーンが幻想的にコラージュして映しだされ、やがて聖杯広間の場面に変わると、そこはインドか東南アジアの神殿のような光景だ。後方に鎮座するティトゥレルはあたかもヴェトナムあたりの僧の如くだ。時間と空間を超越するという原作のアイディアを、グローバルな世界観にまで押し広げたこの舞台は秀逸だ。

 アムフォルタス(ハンノ・ミュラー=バッハマン)の苦悩は実によく描かれている。開帳場面で自らの傷から取り出した血塗れの肉塊(つまりパンか? グロテスクの極みだ)を見てパルジファル(ブルクハルト・フリッツ)はたじろぐ。
 第1幕最後にティトゥレルと共に残ったアムフォルタスが、グルネマンツに勧められて王に近付いてきたパルジファルにすがりつくくだりは、ミーリッツのそれにも共通するアイディアだが、お互いそっくり真似るのではなく、どこか趣向を違えているところがさすがである。

 第2幕は、むしろ平凡な舞台だろう。

 第3幕前半は、遠景に摩天楼が見える雪のセントラル・パークといった光景で、家族連れが散歩する姿も見える。その中にパルジファルが彷徨い込むというアイディアは秀逸で、「どことも知れぬ場所を彷徨ったパルジファル」に相応しいだろう。公園と、グルネマンツやクンドリーがいる世界とは金網で隔てられており、パルジファルはクンドリーに招き入れられてこちらに移ってくる。歌詞に即してこれは当を得た舞台だ。

 場面転換は予想通り破壊、廃墟に続くイメージで、映像にはビルの破壊や崩落、津波など、文明の破滅が次々に現われる。最後には火炎を背景にした摩天楼。第1幕では西欧風に武装していた騎士団は、今や精神的にも荒廃しきったテロ集団と化しており、アムフォルタスをも殺しかねない勢いだ。これも、原作のイメージを一歩推し進めたものである。ただしこれらをパルジファルが救済する辺りになると妙に平凡平板な舞台になる。この演出はここだけが欠点だ。画竜点晴を欠く。

 歌手ではグルネマンツのルネ・パーペが度外れた存在感。今やハンス・ホッターの後継者として地位を築いた感があり、これから更に年輪を加えて偉大な歌手になるだろう。その他はあまり知らない歌手ばかりだが、なかなか手堅く、バランスの良い出来を示していた。たしかにこの演出ならば、スター歌手はそれほどいなくても成り立つだろう。

 終演後は知人とヒルトン・ホテルのレストラン「ブランデンブルク」で夕食。こんな遅い時間にヴィーナー・シュニッツェルをモリモリ食べるなど体に悪いことは承知の上だが、面白い上演を観た後には空腹になるのだから仕方がない。

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