2024-03

2005・3・27(日) ザルツブルク・イースター
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル

      ザルツブルク祝祭大劇場  6時30分

 マーラーの「交響曲10番」の「アダージョ」で開始された。16型のオケの威力は素晴らしく、安永徹をリーダーとする弦は特に鮮やかだ。クライマックスでのトランペットの咆哮は魂の慟哭であろう。ここだけは意図的に苦悩的な音で轟いたオケは、全体には濁ることのない音色を響かせた。ベルリン・フィルの底力を示した演奏であった。

 続いてブリテンの「セレナード」。ボストリッジと並んで舞台前面に立ったホルンのラデク・バボラクの巧いこと上手いこと。単に技巧のみに止まらない音楽の微細な表情づけ、変幻自在の音色。最後の「エピローグ」では舞台裏から遠く遠く神秘的な音を響かせた。いくら歌手が上手くてもホルン奏者が駄目だったら断じて成立しないこの作品だが、今回は見事そのものであった。それすら全く問題にならぬ程の感動を与えてくれたバボラクの名技である。
 
 ボストリッジももちろん素晴らしかったが、さすがに3日間連続してこれだけ高音域の多い、最強音の多い、長大な歌曲を歌って来て(しかもこれは第2チクルスであった)疲れが出たのか、後半の「Dirge」の一部で声が少しかすれたが、強いてアクシデントといえばそれ一つだけ、とにかく彼の熱演は讃えられよう。拍手もバボラクへのそれと併せて圧倒的だった。

 後半はまずシューベルトの「アダージョ」━━これは一般には「アンダンテ」と言われているものだが━━D936Aの交響曲の第2楽章である。ブルックナーの先取りともいうべき作風を持つ。
 楽想の展開に乏しく、演奏時間も短いため、今夜のプログラムの中では一種の間奏曲のようなイメージになってしまったが、しかしその意義はすこぶる大きい。シューベルトがもしもっと長生きしていれば、必ずやブルックナーのような交響曲を書いたであろうことを予想させる、それが先日の「ザ・グレイト」とこの日の「アダージョ」なのである。

 そしてそのシューベルトの「アダージョ」は、もうひとつ、もしマーラーがもっと長生きしていればおそらくシェーンベルクもかくやと思わせるような現代音楽の分野に進出していったであろうことを予感させる「アダージョ」と対比するプログラム構成だ。
 それにこのあとの、モーツァルトの完成された最後の交響曲「ジュピター」と併せたプログラミング、━━実に心憎いラトルの選曲である。

 その「交響曲第41番」は10型編成に戻ったが、ラトルは温かい音色で壮大に音楽をつくった。コンサート最後のプログラムとして全く遜色ない演奏である。フィナーレの後半は、今回の3曲の中で唯一反復された。演奏も、昨日までの2曲に比して、一層ストレートである。これらの点における3曲を比較して、ラトルの解釈に一貫性が欠けていると見るか、あるいは自由と見るか、それは彼の選択肢であるから、一概に云々することはできまい。
 しかしいずれにせよ、ラトルがこの3つの交響曲を、それら本来の性格に相応しくそれぞれに強調して描き分けようとしていたことは間違いない。ただ一つ気になるのは、緩徐楽章において、音楽が突然生気を失いがちであったことだ。

 それにしても、この3日間のプログラムが、すでに述べたような大きなコンセプトで括られ、しかもモーツァルトの明るい変ホ長調で開始され、壮大晴朗なハ長調の世界で結ばれるその流れの巧さには、改めて感嘆せずにはいられない。

 夕食は久しぶりに「ハッピー・チャイニーズ」で。

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