2024-03

2004・4・12(月)ザルツブルク・イースター(終)
モーツァルト:「コジ・ファン・トゥッテ」

     祝祭大劇場  6時

 ラトルがモーツァルトの大作オペラを指揮し、アーゼル&カール=エルンスト・ヘルマンが演出(後者は衣装と装置も)、バルトリとコジェナーとボニーとアレンが歌う、ということで、今年の音楽祭の目玉になっていた。

 たしかに女声歌手陣は強力だ。演技はちょっと素人っぽいけれども歌唱は相変わらず強烈なチェチーリア・バルトリ、その彼女ほど拍手は大きくはなかったけれども安定した実力のマクダレーナ・コジェナー、3枚目の役回りながらまじめ(すぎたか)な歌唱を貫いたバーバラ・ボニー。いずれも音楽的に充実していた。

 ただし男声陣は若干劣る。アルフォンゾのトーマス・アレンと、グリエルモのジェラルド・フィンレイはまず無難だったが、フェランド役のクルト・シュトライトという人は技術的にも少し苦しい。

 あの広大な舞台を左右いっぱいに使っての演出は、そのわりには散漫さを感じさせない巧妙なものだったが、ただ登場人物の心理の微細な動きを演技から読み取るには、これはやはり巨大な空間でありすぎた(特に1階前方で観ている者にとってはそうだ)。
 姉妹が男たちの芝居に気づいて意図的に乗る設定や、グリエルモが怒りのアリアをその場面だけ客席に向かってアピールしながら歌うくだりなど、ピーター・セラーズがすでに試みている手法だけに、何を今更という印象も拭えない。もちろん全体に洗練されたものではあるけれど。

 また慎重な姉と冒険的な妹との性格づけが明瞭な原作と異なり、どちらがどちらともいえないこの演出の設定は、その2人の女の対比をやや曖昧にし、ドラマを単調なイメージにしてしまっていたのは確かだろう。装置はかなりシンプルなものだったが、照明と併せきわめて美しかった。

 さて、ラトルのモーツァルトは━━ベルリン・フィルに徹底したピリオド楽器的奏法を要求し、音楽の持つ緊迫感と構築性、畳み込むエネルギーを存分に発揮させていた。それは極めて卓越したもので、たとえば序曲のコーダなどは息を呑むほどの迫力に満ちていた。

 そういう良さは認めながらも、いくつかの不満は残る。まず、レチタティーヴォの演奏だが、それを演技優先のテンポにするものだから、音楽的な流れが完全に損なわれる。アリアや行進曲の部分で折角見事に築かれた緊迫感をも失わせてしまい、オペラ全体をだらだらと長く引き伸ばさせる結果になってしまうのである。
 それと、ハーモニー感覚の希薄さ。モーツァルトのオペラの中で、「コジ」ほど和声の美しさが目立つ曲は、他に例を見ないはずだ。女声の3度のデュエットの下に波打つ弦楽器の神秘的で柔らかいロマンティックな響きなど、その美しさは本来、驚異的でさえあるのだ。ところが、ラトルがそういう箇所で引きだす音は、実に硬直しているのである。それには、オーケストラの音色のドライさ、汚さも関連しているだろう。

 総じてラトルのモーツァルトのオペラは、現在のところでは、特に傑出したものではない、と言わざるを得まい。
 今年のザルツブルク・イースター訪問は、これで完了。次の目的地はドレスデン。

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