2024-03

2004・4・14(水)ドレスデン(終)ワーグナー「ヴァルキューレ」

    ドレスデン・ザクセン州立歌劇場  5時30分

 ザルツブルクのような華やかな音楽祭も悪くはないが、このような古式床しい街の歌劇場で、そこをホームグラウンドとして強みを発揮しているカンパニーの公演を観るのも実にいいものだ。普段着の観客ばかりだし、不思議にくつろいだ雰囲気がある。

 今回の「ヴァルキューレ」は、ヴィリー・デッカー演出、ヴォルフガンク・ガスマン美術・衣装の「指環」プロダクションの一環で、2001年のプレミエ。世評はすこぶる高いと聞くが━━。

 劇場を模した「客席」と「内舞台」とからなる第1幕の光景は、またかと思わせるたぐいのもの。第1幕前奏曲のさなかからヴォータンが現われ、自ら内舞台の幕を開け、出来事の進行を見守るあたりも、さほどめずらしくないテだ。

 この内舞台は白木の作りで、中央に大きな柱があり、そこに大きなノートゥングが突き刺さっている。フンディングが持っている武器も(槍ではなく)ノートゥングと同型の剣であるのが面白い。後方の壁が消えて月光が差し込むあたりは美しい。
 舞台と客席の関係は、主人公と観察者の関係でもあるようだが、時折この関係は逆転する。フンディングがヴォータンに倒される以前にすでによろめいているのは、ジークムントには所詮かなわぬ彼の存在を暗示しているというわけだろう。

 第3幕に至って内舞台はすべて客席となり、ヴァルキューレたちもヴォータンもこの客席の通路を右往左往するというわけだが、この意図は明確でなく、しかも視覚的にすこぶるメリハリを欠いて煩わしい。音楽と物語の両者が本来持っている宇宙的な壮大さが、日常に見るような調度の大道具により矮小化され、イメージを限定してしまうのだ。
 たとえわずかの照明で変化が行なわれたとしても、1時間以上(あるいは3時間半)も「劇場の客席の椅子」ばかり見せられていては、視覚的に飽きてしまうのも当然だろう。策に溺れたとはこのことである。

 第3幕冒頭では、ヴァルキューレたちは大きな矢印(これもどこかで見たような光景だ)の吊り装置に乗って降りてくる。ラストシーンは舞台奥に白い卵形が浮上し、ブリュンヒルデはその上に寝ているという構図だが、別に火がそれを囲むわけではなく、拍子抜けさせられる光景だ。

 総じて舞台は単調の印象を免れない。といって、キース・ウォーナーのようなゴテゴテといろいろなものを並べた舞台がいいという意味ではない。ともかくこうした手法がそろそろ鼻についてきたという感を拭えないのである。先日の「コジ」といい、この「ヴァルキューレ」といい、いっそ演奏会形式で聴きたかったとさえ思う。そうすれば、このすばらしい音楽からいささかも気を散らされずに済んだものを。

 指揮はペーター・シュナイダー、この人はやはり「10勝5敗」型の指揮者だ。スリルはないが破綻もなく、良くも悪くも安定している。昔ならホルライザーといったところだろう。テンポは少し素っ気なく、「魔の炎の音楽」など踊るようなテンポで軽快にやってしまっていた。
 今日聴いた席は2階上手側中央寄り2列目で、屋根の下に入っているせいかオーケストラの音はやや硬い。1階で聴いた知人が、オーケストラの音のふくよかさに痺れたと言っていたくらいだから、席によって随分音が異なる様子である。

 ジークリンデのヴィオレッタ・ウルマナが歌唱で流石に光り、ビルギット・レンメルトも貫禄のフリッカ。エントリク・ヴォトリッヒのジークムント、ユッカ・ラシライネンのヴォータンも安定して立派だ。
 エヴェリン・ヘルリツィウス(ブリュンヒルデ)は体調不完全とアナウンスがあったが、第3幕前半では声をセーヴしていたものの、全曲を通じて聴かせどころでは見事な歌唱を聴かせた。フンディングのヨハン・ティルも長身の迫力で、ちょっとルネ・パーペを思わせる。

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