2024-03

2022・10・15(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

     サントリーホール  6時

 錦糸町のトリフォニーホールから、地下鉄で赤坂のサントリーホールへ移動。
 こちら東響の10月定期では、音楽監督ジョナサン・ノットの指揮で、ラヴェルの「道化師の朝の歌」と歌曲集「シェエラザード」(ソリストは安川みく)、ショスタコーヴィチの「交響曲第4番」というプログラムが組まれた。コンサートマスターは小林壱成。

 これだけ活気に富んだ演奏でラヴェルとショスタコーヴィチを聴くのは、久しぶりだ。 
 「道化師の朝の歌」での演奏は、少々暴れすぎかなという感もないではなかったが、主人公をアパッシュ(ならず者)的な男に仕立てた演奏と解釈すれば、充分に楽しめる。
 「シェエラザード」では安川みくが豊麗な歌唱を聴かせてくれた。彼女を聴いたのは、私は多分今回が初めてになるが、いい雰囲気を感じさせる。この曲に関する限り、ノットの指揮と東響の演奏には、もう少し官能的な味があってもよかったかなと思うし、また声楽を引き立てるようなバランスが欲しかったな、とも思う。

 ショスタコーヴィチの「第4交響曲」は、これまで私がナマで聴いた日本のオーケストラによる演奏の中で、如何なる演奏と比較しても猛烈、激烈、鮮烈なものだったと言っていいだろう。
 それは、かつてゲルギエフがマリインスキー劇場管を指揮して表現したような、作曲者が体験していた圧政下の苦悩を訴えるかのような暗い表情の演奏とは異質なものではあるけれども、しかしこれだけ激しい感情の爆発を示した演奏というのは、めったに聴けないのではないか。英国人ノットがここまでやるか、と驚いたのは事実だが、またここまで荒れ狂い、咆哮し、怒号した東京交響楽団も初めて聴いた。

 その燃え上がった演奏が、如何なる時にも均衡を失わず、アンサンブルとしての正確さを保っていたというのも見事だった。しかもその一方、叙情的なピアニッシモの個所でも、緊張感は全く失われなかったのである。全曲最後の謎めいた、恐怖感さえ誘うような、暗黒の中に消えて行くような終結も、不気味な広い空間性を感じさせて、素晴らしい演奏だった。

 「4番」は、のちの「8番」とともに、ショスタコーヴィチの交響曲の中では最高傑作の地位にあると私は思っているのだが、今日の演奏はそれを実証してくれるものであった。ノットと東響はこれまでにも印象に残る演奏をいくつも残してくれているが、今回のショスタコーヴィチの「4番」も、その中の上位に入るだろう。

 なお、この曲の第1楽章での、あの弦楽器群の猛烈なパッセージのあとしばらくして、上手側に配置された第2ヴァイオリンの奏者の1人が演奏中に昏倒して、舞台袖へ運び出された。ノットは指揮を続け、オーケストラも演奏を中断しなかったが、古来の「Show must go on」のビジネス意識の鉄則として、これは正しい。とはいえ、その奏者が座っていた椅子の上に置かれたままになっている楽器に目を遣るごとに心が痛んだ。大事ないことを心から祈る。

※頂戴したコメントの中で、一部個人情報の守秘事項に抵触する部分がある旨、関係者から申し出がありましたので、申し訳ございませんがカットさせていただきました。、

コメント

最後の「チェレスタの問い」で落涙するとは思いませんでした。

「猛烈、激烈、鮮烈」は東条先生ご指摘のとおり。第1楽章の弦によるフガートのプレストとカタストロフ、第3楽章の300小節に及ぶスケルツォとクライマックス、それに続くワルツやギャロップなど、息ができないほどでした。

しかしまた、その後に来る静けさのなかで各パートの妙なる調べのなんと美しいことか。たとえば全曲最後の葬送を回想する弱音器付トランペット、第2楽章のカスタネット、ウッドブロック、小太鼓など。

ショスタコーヴィチは一体何を思ってこの曲を書き上げたのか、またこの曲をいま演奏することの意義は何なのか、不思議に内省を強いられた公演でした。

「Show must go on」って人命より優先されるのでしょうか?それに演奏を止めるな、というのは拡大解釈では。一旦止めても再開すれば、続いてるといえると思いますが。

私も現場を見ていましたが、突然倒れた人がいれば救護最優先です。症状の軽重を演奏続いてるなかで判断するのは不可能だと思います。あのあと気になって音楽に集中できませんでした。なんの情報提供もない楽団もおかしいし、平然とカーテンコールを受ける監督には失望しました。

演奏止めて、無事を確認してから改めて再開した方が、他の奏者のかたも不安なく続けられたと思います。

2ndVn奏者の件ですが、指揮者は演奏を中断すべきであったと思います。昔の通念は通用しないでしょう。周囲のVn奏者はパニック状態のように見受けました。あのように火事場の騒ぎのように急患を運びだすのではなく、興行を一時中断し人を集め、慎重に対応するべきです。
 演奏はポリフォニックな扱いも卓越していて緩急自在。過去に聴いたアシュケナージ、インバル等より素晴らしいタコ4でしたが、醒めてしまいました。中断し、1楽章を最初から演奏し直してほしかったです。



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難しい問題ですね。

小生はミューザ川崎での同一プロを拝聴。演奏は現代オケの最高水準の芸術表現とも言えるもので、堪能させていただきました。

ところで、サントリーホールでは、そのようなアクシデントがあったのですね。その場を目撃したわけでもなく、的外れな意見となるかもしれませんが、これはオケとしての危機管理対応の問題であって、その場での演奏継続という判断の責任を指揮者にすべて負わせるのは少し酷ではないかと思われてなりません。

過去から、演奏中の奏者の急な体調不良は数多く発生しており、そこでどのように対応するか、そこで基本となるのは「演奏に支障が生じない限り演奏は継続する」という方針なのでしょう。東響も基本的にそれに従っていたのでしょうし、指揮者もそのような方針に従っただけに過ぎないのではないかと。

100名からなるオケの一人が倒れた場合、指揮者が常にそれに気付くかどうかも分かりません。そこで指揮者が上記方針に反する判断をして演奏を止めたとしても、それは演奏の最高責任者である以上、許容されると思いますが、常にそれを求めることは難しい。もし聴衆の皆さんが演奏に集中できなくなるような救護作業のもたつきがあったとするなら、それはむしろオケ事務局の責任なのではないでしょうか。

なお、確かに東響から何らかの情報提供がほしいところですね。かつて、新国立劇場でオペラ鑑賞時、休憩時間に入ったところで聴衆の一人が昏倒、「医師・看護師の方はおられませんか」「AEDをもってきてください」という声が乱れ飛ぶなど、ホール内が騒然となったことがありました。その方は救急搬送され、幸いなことに大事なかったのですが、休憩時間終了時に支配人がステージに登場し、ご本人は無事快復されていることの報告と、救急搬送に際し、聴衆の皆様に支援いただいたことへの謝意表明がありました。そのような透明性のある対応が望まれますね(急病となった奏者の方の個人情報となるので難しい面もあるのでしょう)。

以上、現場に居合わせたわけでもなく、また、いつもの浅学非才な身での僭越な弊見ですが、何卒ご容赦ください。

東響のニュースリリース

東響のホームページに下記が掲載されています。ご本人の病状があまり明確にされておらず、少し心配ですが、取り急ぎ。
https://tokyosymphony.jp/pc/news/news_4841.html

救命を仕事にする者として

先ず、尊敬する東条さんの御言葉とも思えません。警備、救命のプロとして、いや、社会人の常識としての鉄則を申し上げます。倒れた人は傷病者です。交通が激しい場所ならともかく、独力で動けない傷病者はみだりに素人が動かしてはならない。ステマネさんかどなたか知らないが、搬送中もう一度落としたらどうなります?。救護措置は原則としてその場で行わねばならない。動かしていいのは救急隊員だけです。まあ、命より大事なものがあるというならそれはそれですがね。但しそれは平時においては現代社会では、言葉の遊びにしかならないでしょう。

アクシデントの件とは関係ないですが

ここにコメントされてる方の中で偉大な作曲家に対して変な略語を使われてる方がいるのが気になります。例えばブルックナーをブルとかモーツァルトをモツと言うのは頭文字なのでまだ理解できますがどうして真ん中を取るような略語を使うのでしょうか。8番もそのように面白おかしく呼ぶのでしょうか。
例えばリムスキーコルサコフをキーコとか呼んだりしないですよね。
クラシックファンの中では浸透してるのかも知れませんが自分は気になります。

Shostakovich

「第四番」ですが、普段の東響からはなかなか伺えない、壮絶な演奏でした。その中で(アクシデント後も)バランスを全く崩さず、ラストまで演じきった彼らは、プロ中のプロと私は考えます。先述氏のコメントにあった「ショスタコーヴィチは一体何を思ってこの曲を書き上げたのか、またこの曲をいま演奏することの意義は何なのか、不思議に内省を強いられた公演でした。」これが、まさに私の感想と一致しています。この狂った様にめまぐるしく様相が変化する怪物交響曲を、ここまでの説得力とテクニックで演じきった指揮者と楽団に、心の底から敬意を表します。(楽団員の体調の問題は音楽とはまた別次元の議論かと思いますが、演奏を止めなかった指揮者と楽団、そして舞台裏のスタッフの速やかな対応は、賞賛こそされ、批判されるべきものでは無いと、私は思います。)

人の命

上級救命講習落第必至な御意見は、それはそれで結構です(笑)。まあ本日オケに聞いてみますよ。あなた達は医者でも救命隊員でもないのに、何の資格と判断で、尋常ならざる昏倒をしたという危険な人をみだりに動かしたの?と。傷病者搬送の訓練は普段からやってたの?。運んでる途中転んでたら責任とれてたの?とね。それに答えられなきゃ、東響は厳しい反省を求められるでしょう(笑)

楽団のリリースで、ご本人がご無事でなによりと思う一方、その時の不手際や(全くもってスムーズではなかったし、不自然でした)、今後の対策については何もコメントがないので、今後もノット東響ではこういうことが起こるのではと心配で、落ち着いて聴けなくなりそうです。何よりも団員の方はそれで平気なのでしょうか? 安心して音楽に集中できない状態になってしまっていると思います。
団員の方のツイートで、第三者のプライバシーに関する事を返事する立場にはない、といっていたのにも大いに失望しました。第三者? 仲間ではないのか、自身がそうなったときの可能性は考えないのかと。
東条さんにはぜひ、そういう意見があることを機会があれば事務局にお伝えいただきたいと思います。決して大げさな話ではありませんし、Show must go onで免責されることは一切ありません。

東響事務局長さんとの語らい

先程電話で御話ししましたよ。辻さんとか仰られたかな。私の意見に賛意を示して下さり、円満に話は終了しました。私共も、素人が軽々しく判断をしてはいけないと、今も会議をしておりましたとの事。この件は今後に必ず生かすと。よってこの件はわたくし的には終了致します(笑)

初動の対応が生死を分けるかもしれない。同じ舞台の上でそのような局面になっている時に、go onしなければならないshowなんてあるだろうか。仮にあるとして、ではその目的とは一体何なのか。顧客満足?芸術的成果?個人の倫理観と業界の掟らしきものとの間で痛々しく引き裂かれながら、後ろめたげに差し出されたそれらをおずおずと鑑賞したところで、そこにどんな価値を見出せるというのか。取り返しのつかない結果に至り、その要因が初動の遅れにあったと結論付けられたとしたら、楽団の責任者の方々はご家族に何と言うつもりだったのか。彼らを責めることができるほど私は立派な人間ではないけれど、この日以来ずっと考え続け今も考え続けて得られた結論は、show must go onなんてただの慣用句に過ぎない、その代償は誰にとっても決して等価にはなり得ない、ということ。背負ってしまった重荷を帳消しにしたかったから、私達は倒れた方の続報を求めた。無事でさえいてくれたなら、何も無かったことにできるから。使命感をもって選択すべきは、「続ける」ではなく「止める」だった。少なくとも私はこれからは、それができる人間になりたいと思う。次の定期を平常心で聴くことはまだできないだろうし、来月のサロメも自信が無い。それでもいつの日か、この日居合わせた全ての人のために、ショスタコーヴィチ4番の再演をお願いしたい。

コンサートは聴いていないのですが、驚きました。東響の楽員の方がとりあえずご無事で何よりです。ご健康の回復を心より祈念致しております。東条先生も、素晴らしいコメントありがとうございました。

図らずも、コロナ禍最初期の数ヵ月を思い出しました。イベントごとは不要不急とされ、コンサートは軒並み中止になり、クラシック音楽も標的にされました。ファンは憤り、悲しみました。私もその一人です。コンサート再開後も、海外在住の音楽家は入国が厳しく制限され、度重なる予定変更を余儀なくされました。一方で、感染拡大を防ぎ、医療崩壊を喰い止め、国民の命を守るために様々な制限はやむを得ない。人の命より重いものはないという主張をした方も沢山いました。見えない死も見える死(ご無事だったので「死」という言葉を使うのはためらわれるのですが、「死」を連想させたからこそ皆さんこれだけトラウマになったり反応したりするのでしょう)も同じ死なのに、人は正反対の反応をすることがある。この矛盾は誰もが抱える矛盾です。

大切な問題を考えさせるきっかけになったのがノット指揮東響によるショスタコの4番の演奏会というのも不思議な巡り合わせを感じます。ジョン・ケージや一柳先生ならこのようなハプニングやその後の一連の騒ぎも音楽の一部であり、演奏の価値を構成しているのだと考えたのかもしれません。

私は、今回のアクシデントに関する東条様の一言、共感しました。
倒れた方も、そのためにコンサートが中断してしまうことは不本意だったことでしょう。

私は東条さんのお言葉の通りだと思います。もし自分が倒れた側だとしても、自分のせいでコンサートが中断なんてあってほしくないです。実際にこの場にいたわけではないですが、このようなハプニングがあったにせよ最後まで素晴らしい演奏をやり遂げたというノット&東響の凄さを感じます。いつか聴いてみたいですね。倒れた方もコンサートの行方を聞いて安心されるのではないでしょうか。大事に至っていないことを祈っています

勉強になりました。

皆様のコメント、全てが率直かつ示唆に富むもので大変勉強になりました。有り難うございます。頭の中が整理できました。

まず、個人的には、アクシデントが起きても演奏は継続すべきとの原則、これは一般論としては妥当なのだろうと思います。それは、演奏の中断は役務の不完全履行となり得ること、中止してやり直すという行為は、演奏行為という一過的な芸術表現の完成度を損なう可能性がある(したがって、奏者も好まない)こと、やり直しによって終演時刻が遅くなることも聴衆・ホール側にあまり歓迎されないこと、などによります。

しかしながら、そのような原則も様々な要因によって制約されるのであり、たとえば、ソリストの楽器(Vn以外?)に不具合が起きた場合は演奏を中断するしかありませんし、さらに、人の生命・身体に危険が迫るような緊急事態において、演奏継続の優先順位が低下するのは当然のことでしょう。

より現場に則して考えると、演奏者側(特に指揮者)は往々にして「絶対に演奏を止めてはならない」という使命感に近い感情を有し、緊急事態においても演奏を継続する傾向があるため、指揮者以外の者(楽団長? ステージマネージャー?)にそのような場合に演奏を中止できる権限を付与すべき(そして、必要な場合には躊躇なくその権限を行使せよ)ということになるのではないかと。

権限がなかったとしても、そのような行為は当然に緊急避難的な正当行為となる(違法性は阻却される)と思いますが、緊急時における演奏中止に関する楽団側の権限と免責を出演契約などにあらかじめ定め、関係者間の認識を一致させておくのが望ましいのかもしれません(的外れな指摘でしたらご容赦ください)。

考えてみると、近年の自然災害の激甚化、国際情勢緊迫化に伴う演奏家・聴衆を標的とするテロ行為のリスクなどから、奏者・聴衆の生命・身体に危険が迫る事態が起きる可能性は前より高まっているのかもしれず、さらに、昨今、企業・組織に人権問題への高度な配慮が求められるようになっていることも踏まえると、「絶対に演奏を止めてはならない」という価値観、そのような行為を美化する我々の意識双方について、少し修正することが必要なのでしょう。

ちなみに親しいヴァイオリニストに本件を伝えたときの反応は、「自分が倒れたのだったら、演奏は中断してほしくない。でも、自分が客席にいたら、演奏を止めて救けてあげて、と思うかも」というものでした。う~ん、なるほど。

以上、駄文にて失礼いたしました。皆様のコンサート・ライフがさらに充実したものとなりますように(今週末はブルックナーですね)。

マスクと♩=168

第一楽章の弦楽器によるフガートは、♩=168プレストという速さ。16分音符8個がおよそ100小節にわたり譜面を埋め尽くし、演奏は至難を極めます。
当日の演奏はこれにドライブがかかり、疾走感が際立っていました。

ここで気になったのは、弦楽器奏者の多くがマスクを着用していたということです。
あれではマスクをしたまま全速力で走らされているようなもので、通常の演奏コンディションではなかったと思います。
この点は他のオケを含めコロナ対策を見直す必要がありそうです。

最後に正直に申し上げると、わたしは異変に気付いたあと、演奏を留めてほしくない、続けてほしいと思いました。それほど得難い演奏でした。しかし、みなさんのコメントをみて自分の認識と意識の至らなさを思い知り、恥ずかしくなりました。

時代は変わった?

茂木大輔さんの著書に、シュトゥットガルト・フィルのウィーン公演の本番中にヴィオラ奏者が貧血で倒れ、周りの奏者たちによって袖に運ばれる最中にも演奏が続く様子が詳しく記されています。それが業界の国際的な常識なのだと私は思っていました。
30年以上前の話ですが、友人が聴きに行った東京のあるプロオケの定期公演の本番中に管楽器の奏者が体調不良で倒れ、これはさすがに中止になったそうです。
仲本工事さんが先日事故に遭った直後は車道に倒れていたものの、すぐ歩道に移されたということが報道されています。今回の件での措置も、それに類するものだったのではないでしょうか。
舞台上で倒れた人の救命処置をその場で行うべきだという意見は尤もだと思いますが、その場合サントリーホールのように緞帳のない場所では客席を注視する大勢の客にどう対応するかも、予め綿密に考えておかなければなりませんね。

 様々なご意見を読ませていただき、大変、参考になりました。ファンの1人として、私見を述べさせていただければ、今回、演奏を中断しなかった、ということは、まずは、倒れた方の「生命」や「安全、健康」を最優先しなかった、という意味で、指揮者、コンサートマスター、ステージマネージャーの方々等には、その意味での責任がかなりあるように思います。そして、残念ながら、基本的に、この演奏会は少なくとも「無事に」終わった演奏会ではないことになると思います。
 また、上記の何人かの方々もお書きですが、演奏家も、聴衆も、「演奏」そのものに本当に集中できた演奏会であったのか‥。熱気のある内容だったとのご意見もありますが、それは、こうしたイレギュラーな状況の中での心配、不安、焦りからのものでは、という見方も生じますし、そうしたものが少しでもあったとすれば、それは芸術的な価値があるものではないと思います。そして、そうした状況で演奏を最後まで続けたことも本当に価値があることなのか、ということも議論の余地が多分に残ることと思います。
 基本的な「安心、安定」の状況があるからこそ、多角的な視点で「芸術」に集中して演奏家は演奏し、聴衆は鑑賞できる。そして、それ以前に、演奏家、鑑賞者そこへ集う全ての人への、互いの大切な「生命」や「健康」への想い、思いやりがあることと思います。
 今回とはかなり状況が異なる事例ですが、ちょうど10か月前、同じ会場で、演奏後、観客同士が殴り合いになる事態が発生しました。これについても、当日の対応のみならず、関係者の事後の対応についても、充分ではないと思っているファンも大変、多いようです。
 演奏者、聴衆を大切にするための危機管理、イレギュラーな事態への対応を、今後、どうしていくのか、東響さん等に限らず、業界全体としての議論の継続がますます必要であると思いました。

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