2024-03

2023・2・5(日)文楽スタイルの試み「田舎の騎士道」「道化師」

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 「田舎の騎士道」とはもちろんあのマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」のことである。これとレオンカヴァッロの「道化師」を併せての定番ダブルビルが「東京芸術劇場シアター・オペラvol.16」として上演された。

 演出には、宝塚歌劇団の演出家として昨年まで活動した上田久美子が起用された。その舞台は、頗る面白い。「文楽スタイルの試み」として、太夫(浄瑠璃語り)と人形遣い━━つまり演奏者と演技者とが別━━の分担のイメージを適用し、主役陣には歌手と演技者とを別々に存在させた舞台構成が試みられているのである。

 とはいっても、文楽とは異なり、演奏者と演技者とが画然と分かれるのではなく、全員が同じ空間に存在し、しかも歌手陣も演技し、時には各々の「歌手」と「演技者」が互いに交錯してドラマを展開するという、おそろしく凝った手法が採られているのが特徴と言えよう。
 また、「田舎の騎士道」のラストシーンでは歌手2人と、演技者2人が各々決闘する光景が見られる(後者での若者2人が現代的な乱闘をするのが傑作)が、「道化師」では、予想に反して客席で歌手3人が入り乱れて2人が斃れ、演技者たちは舞台で茫然とその光景を見守るという、混み入った解釈が採られる例も見られる。

 しかも歌手たちの歌唱は、背景に投映されるイタリア・オペラとしての正統的な日本語・英語の字幕と呼応し、いっぽう演技者たちの「心の」会話は、舞台装置に投映される関西弁の字幕と呼応するという、これも凝った試みだ。
 正規の字幕もよく出来ているが、関西弁の字幕の方は砕けまくった文体で、これまた秀逸なので、そちらの方に眼が行ってしまう。結局、観客は、歌手陣の演技、演技者たちの演技、正規の字幕、関西弁の字幕━━と、この4つの部分に目を動かしてしまうことになる。少々慌ただしいけれども、それはそれで面白い。

 なぜ関西弁なのかという理由は定かでないが、そこはこの2作が所謂ヴェリズモ・オペラ(現実主義オペラ)であることや、ともに田舎で繰り広げられるドラマであるということから、場外乱闘的なアイディアとして成立するだろう。

 聴き慣れ、見慣れた(もちろん、初めて観る人も多いだろうが、それはそれとして)名作オペラをいつまでもありふれた手法で上演し続けるより、このような新しい試みを加えて上演する姿勢を、私は大いに歓迎したい。特に、日本の舞台芸術の手法で西洋の芸術を新鮮に蘇生させるという試みを、私は絶対に支持する。
 かつて若杉弘氏が、日本のワーグナー上演の舞台を見たヴォルフガング・ワーグナーやグスタフ・ルドルフ・ゼルナーから提言されたという「よくやっているなあ。感心する。でも、なぜヨーロッパ人の真似をするのか。日本には歌舞伎という素晴らしい芸術があるではないか。その手法をオペラに応用したら、きっと面白いものができるはずだ。テクニックがあったら、やってみたいね」という言葉(これは若杉氏本人から聞いた)が、私はいつまでも忘れられないのである。

 なお、今回の上田久美子の演出で評価したいのは、所謂伝統的なオペラ・スタイルに遠慮せずに、自己の手法を押し通したということだ。過去に、アウトジャンルから呼ばれてオペラを手がけた演出家たちは、たいていこの「遠慮」で失敗している。多くの演出家は、こういった新機軸を、遠慮なく試みていただきたいのである。

 歌手陣が素晴らしかった。トゥリッドゥと道化師カニオの両役を歌ったアントネッロ・パロンビの力感に満ちた歌唱は見事だった。
 そして「カヴァレリア・ルスティカーナ(田舎の道化師)」では、テレサ・ロマーノ(サントゥッツァ)、鳥木弥生(ローラ)、三戸大久(アルフィオ)、森山京子(ルチア)が、「道化師」では柴田紗貴子(ネッダ)、清水勇磨(トニオ)、中井亮一(ペッペ)、高橋洋介(シルヴィオ)が、みんな朗々たる歌唱を聴かせてくれた(演技者陣のお名前は、申し訳ないが割愛させていただく)。

 合唱のザ・オペラ・クワイアも賑やかな演技を加えて好演。編成の大きな読売日本交響楽団が実に小気味よい壮大な鳴りっぷりを披露、指揮者アッシャー・フィッシュが鮮やかにドラマティックな音楽を構築した。

コメント

こちらの公演、拝見しました。
先ず感じたことは字幕が多過ぎる。
通常の訳詞の他、関西弁での表示が複数箇所に至り目移りする。
舞台をだんじり祭、阪神タイガースを連想させるような関西地域に寄せたステージの為、関西弁なのだろうが、通常の訳詞をそのまま関西弁にしているところも多く、何故?と思う。そこが更に煩わしい。中途半端に感じた。

そのステージは日本の伝統的な着物をダンサー役が着付けていたが、どうも韓国や中国等の諸外国が連想する日本人といった印象、さしずめ韓国ドラマ、韓国時代劇に登場する日本人役が身につける衣装の様だ。

『「19世紀当時のイタリアの貧困化」を今の日本に重ねている』との演出の趣旨からか、面白そうな舞台装置とは裏腹に暗い舞台。
その割に児童合唱団にはカラフルなランドセルを背負わしていたが、何故?現代?と戸惑う。

とにかく字幕が煩わしいステージ。
関西地域の要素を採り入れた舞台だったから、西宮の劇場なら盛り上がったかも。

同日の舞台を観劇しました。

ご存じの通り、二人一役やダンサー起用は、実例も多数あり、それ自体は問題ありません。しかし、一挙手一投足にダンサーの身体表現を重ね合わせたら、歌手の表現のリアリティが損なわれ、「オペラ」ではなくなってしまう。これでは、伴奏音楽を伴うダンスパフォーマンスです。少なくとも「オペラ」と称してはいけない。新たな試みが求められるとしても、「オペラ」の根幹を否定することは、あってはならないのではないでしょうか?

他にも、この演出では、読み替え設定、立ち位置、演出、演技、字幕の全てにおいて、オペラへの無知と作品への理解の欠如ばかりが目立ち、また、視覚的な騒がしさには辟易とせざるを得ませんでしたが、それらは不問とするにしても、今回の「二人一役」は、「オペラ」自体の破壊行為であり、真剣に演じた素晴らしい出演者たちに失礼だと感じました。

加えて、今回の舞台で初めてオペラに接した多くの方々に、間違った印象を伝えてしまうという、取り返しのつかないことを犯してしまってはいないでしょうか?

新発想・新機軸による見事な上演に大拍手

昨年のビゼー「アルルの女」(コンサート・オペラ)に続いて東京芸術劇場のオペラ企画は、今年もシアター・オペラとして実に素晴らしいものでした。
アッシャー・フィッシュさん指揮の読売日本交響楽団のはち切れんばかりの演奏は、かなり難しかったと思われる音楽と舞台の統一感をしっかりと踏まえたものになっていました。
歌手の方々も皆さん立派で、特にトゥリッドゥとカニオの両役を担ったアントネッロ・パロンビさんの圧倒的な声の力は公演歌手の大黒柱的でした。
そして何よりも公演の立役者は、演出の上田久美子さんです。よくぞここまで見せてくれたものだと賛辞を惜しむわけにはいきません。演出の見事さは、随所に現れていました。
特に、歌わない「演技者」(ダンサー)たちに心底魅せられました。中でもサントゥッツァ役のダンサー三東瑠璃さんの演技は圧倒的。彼女の国内外での活躍ぶりをプログラムにて確認できましたが、流石にサシャ・ヴァルツ等の作品に出演している実力者であることが納得でき、その演技に引き付けられました。
そして字幕です。上田さん自作による舞台投影字幕は、流石に舞台作りの専門家でした。関西弁による字幕は、ありふれたお笑い的なものではまったくなく、オペラ作品を読みこなした上で丁寧に仕上げられたもの。通常の日本語・英語の字幕が邪魔になるほど充実していました。小生のようなオペラしか見ていない演劇素人は、何かと外部演出家を敬遠しがちなのですが、今回は完全に打ちのめされました。
合唱を含めて出演した人数も半端なく多いもので、今回の上演に当たっては、相当なご苦労があったことは想像に余りあります。舞台作りに当たっての困難もかなりあったことと思いますが、これほどまで見事に仕上げた国内版によるオペラ制作の新発想・新機軸による上演に対して大拍手を送らずにはいられません。

凝り過ぎでしょう。
だんじりもタイガースも好きですが、それは別の話し。
新しさを纏えばいいと言うものではない。

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