2024-02

2023・2・8(水)新国立劇場のワーグナー:「タンホイザー」

        新国立劇場オペラパレス  5時

 2007年にプレミエされたハンス=ペーター・レーマン演出のプロダクションで、舞台にかかるのはこれが4度目になる。5回上演の今日は3日目。ドレスデン版とパリ版の折衷版による演奏だ。

 今回はアレホ・ペレス指揮の東京交響楽団に、歌手陣はステファン・グールド(タンホイザー)、サビーナ・ツヴィラク(エリーザベト)、エグレ・シドラウスカイテ(ヴェーヌス)、妻屋秀和(領主ヘルマン)、デイヴィッド・スタウト(ヴォルフラム)、鈴木准(ヴァルター)、青山貴(ビーテロルフ)、今尾滋(ハインリヒ)、後藤春馬(ラインマル)、前川依子(牧童)他という顔ぶれ。

 このプロダクション、美点も数々あることはあるのだが、なんせ第2幕後半での大幅カット(ドーヴァー版フルスコアで言えば315~327頁)が承服できず、また第1幕のパリ版による「バッカナーレ」がのんびりした振付のバレエになっているのも不満で━━それらについては、既に過去の上演の際(☞2007年10月8日、☞2013年1月23日、☞2019年2月6日)の項で散々文句を並べたので、もう繰り返すのはやめよう。
 それにしても指揮者はもう4人目、こういう乱暴なカットをやるのを承知で引き受けたのだろうか?

 今回の指揮者アレホ・ペレスは、ザルツブルク祝祭での「ファウスト」、東京での「魔弾の射手」、読響への客演など、これまでに3度ばかり聴く機会があったが、いずれの場合も歯切れのいい闊達な指揮をする人だったという印象があった。
 だが今回は叙情性に重点を置いた指揮で、テンポもあまり調整しないので、第1幕の「バッカナーレ」でも狂乱の宴といった音楽にならず、同幕大詰めの騎士たちの感情も昂揚せず、第3幕では破滅へ突き進むタンホイザーとそれを必死で制止するヴォルフラムとの場面でもさほど劇的緊迫感も生まれず━━といった具合で、これまでとの違いに戸惑わされた。

 ただし、今回もピットに入った東京交響楽団は、過去の3度の演奏の時よりも格段に整った均衡の音になっていたのは有難い。しかしいずれにしても、ワーグナーものにしては、音がかぼそい。以前から感じているのだが、そもそも、この劇場のオーケストラ・ピットは「低すぎる」のではないか。低音域も響いて来ないので、重量感が皆無ということになってしまうのだ。オペラにおけるオーケストラの役割は、伴奏ではない。特にワーグナーの場合には、オーケストラは第一の主役なのである。

 歌手陣は快調。タンホイザー役のグールドは、過去3度の上演の題名役に比して圧倒的に強力だ。日本勢も、巨漢のグールドに対して領主ヘルマン役の妻屋秀和は一歩も退かぬ押し出しと重量感のある声で応酬した。エリーザベトのツヴィラクは、希望に燃えた元気溌剌の「歌の殿堂」から、絶望に沈む「エリーザベトの祈り」までの感情の変化を巧く表現したとみていいだろう。
 タンホイザーから「狂える狼」と罵られるビーテロルフを、あの青山貴が見事に荒っぽく、ケンカ腰で演じているのも秀逸だった。

コメント

1966年のタンホイザー

お疲れ様です。
私も11日行きますが、このプロダクションも四度目ということで、少し違うお話を。
私の人生オペラ初体験は、タンホイザーです。1966年の二期会、指揮は今や知る人ぞ知るマンフレート・グルリット。副指揮を務めた福永陽一郎が「グルリットによって、ワーグナーのテンポというものを知った。」と書いた。グルリットは、日本在住が長く、活躍したが、録音は少ない。今まともなのは、あの不運の神童渡辺茂夫との、自作のコンチェルトのみ。誰かオペラの全曲版を発掘してくれないものか。あと、その後妹さんとの童謡コンサートがうけた安田祥子が牧童役で出ていた。当時のプログラム冊子の小さな白黒写真が、妙に印象に残っている。

最終日

お疲れ様です。
演奏の完成度は、国際的にも誇れるものと思う。それなのに、「均衡している、か細い音」を意図的に出しているのは、各楽器の動きから、細やかな心理劇にしようとしているのか。ト書きやセリフから、だから何なの?と言う感じもする。いずれにしても、ワーグナーの上演は、大きな問題を抱えている。マルクスが、バイロイト音楽祭を「ブルジョア達の大騒ぎ」と揶揄し笑ったのどかな時代は完全に過ぎ去った。

指揮者がどうしようもない!!
序曲の最初からユルフンな演奏、軟体動物のようなヌメヌメしたワーグナーで退屈の極みでした。せっかくこれだけの歌手を集めてどうしてこんなへっぽこ指揮者に振らせるのでしょうか?オペラ監督の見識を疑います。オケの特に木管トップ奏者たちはもっと自発的な音楽をいつもはする人たちなはず。今回問題視されるようなミスはなかったものの萎縮した音楽にがっかりしました。これは指揮者に不当な音楽的抑圧を受けた結果の演奏としか思えませんでした。


歌手が素晴らしかったです

グールドさんのタンホイザーが聴けるということで、5公演通い詰めました。東条さんの言われる演奏や音響についてはよくわかりませんが、3階バルコニーに届く音は迫力ありました。ただ2日目までは「歌の殿堂をたたえよう」が高速で、この行進曲に合わせて登場する合唱の方たちが気の毒に思えました。
初日から「ローマ語り」には圧倒され、3日目1幕第一声が劇場に響きわたった瞬間はその輝く声に魅了されました。タンホイザー以外もヴェーヌス、エリーザベト、ヴォルフラム、ヘルマン、牧童、ビーテロルフ、誰もが歌唱だけでなく演技も充実でした。いついかなる時もエリーザベトから目を離さないヴォルフラムという構図(演出)で彼の憐れさが増幅されていたものの、2幕前半タンホイザーとエリーザベトの二重唱に挿入されるはずの「希望の光は消え失せた」を聞きとることができなかったのは残念でした。
2幕後半のカットがあることにこれまで気づいていませんでしたが、確かにこれからローマに向かおうとする重みみたいなものが薄れる感じですね。今回初めて1幕のバレエはなくてもよいかもと思いましたが、それは歌手の存在だけでタンホイザーの物語が充分表現されていたからなのかもしれません。
ワーグナーの魅力というか魔力に惹き込まれた時間でした。

カットの理由(推測)

 2月11日に観ました。
 東条さんは、「このプロダクション、美点も数々あることはあるのだが、なんせ第2幕後半での大幅カット(ドーヴァー版フルスコアで言えば315~327頁)が承服できず」と書いておられます。確かに、聴いていて、「あれっ、あの音楽がないじゃないか」と思うのは私も同じです。それがまた、ドラマの進行上は必須ではないかも知れないが、音楽としてはけっこう好きな部分なので、余計に欠落を残念に感じました。
 なぜ、こんなことをするのか、私なりに推測すると、単に演奏時間を短縮するということの他に理由があるように思えます。
 カットされた部分は、歌合戦が修羅場と化し、エリーザベトが大見得を切って場を収めたあと、それに続く場面ということになります。ここはイタリアオペラのアンサンブルフィナーレそのもの、カットを実行する側の考えとしては、それが気に食わないのでしょう。男声低音部(ヘルマン)のソロに始まり、男声高音部(タンホイザー)が加わる。ゆったりとした行進曲ふうのテンポで、コーラスも交えアンサンブルのボリュームを増しながら、最後に女声高音部(エリーザベト)の声が舞い上がる。そして、幕切れに続きます。
 楽劇と呼ばれる後期の作品にはない、ドニゼッティやヴェルディ、さらにはマイヤベーアの影響を如実に感じさせる部分です。誰がカットを決めたのか知りませんが、いわゆるワグネリアンという人たち、作曲家を神格化したい人たちは、この部分を、先行する傑作の影響を、恥部と感じているのかも。
 突然ワーグナーが現れたわけでも何でもない、遡ること100年あまり、オペラの歴史の線上にあるのだから当たり前のことなのに。「さまよえるオランダ人」にしても、この「タンホイザー」にしても、オペラなんだから。

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