2024-03

2009・3・7(土)トーキョー・リング待望の再演
ワーグナー: 「ラインの黄金」初日

  新国立劇場(マチネー)

 2001年3月のプレミエ以来、8年ぶりに観る舞台。
 そうそう、こういう風だったよな、と思う場面ばかりだ。
 しかし「8年ぶり」という感がしないのは、あの時の印象が強烈だったせいもあるだろう。キース・ウォーナーの演出、デヴィッド・フィールディングの装置と衣装、ヴォルフガング・ゲッペルの照明、どれも少しも色褪せていない。
 今世紀に入って以降、この他にもユルゲン・フリムやタンクレート・ドルスト、シュテファーヌ・ブランシュヴァイクやクラウス・グートなど、10プロダクション以上の「ラインの黄金」を観て来た勘定になるが、それらの演出と比較しても些かも遜色がないどころか、むしろそれらを上回るほど良く出来た舞台と言っても言いすぎではないのだ。賞味期限の短い最近の演出界では、めずらしいケースではないかと思われる。再演の価値、十二分に有り。

 映画を見ながら戯れるラインの乙女たちの場に始まり、いびつな形をしたヴォータンの「建築設計事務所」やアルベリヒの成金的オフィス、「神々のワルハラ入城の場」での「見せ掛けの華やかさ」など、いずれもプレミエ時と全く同じ。
 アルベリヒが財力にもの言わせて女をもてあそんだりする場面(ハーゲンはこの時にできた息子ということになる)、指環を奪われて自己去勢し、愛も権力も金も放棄して怨念のみに生きることを誓うような場面なども同様だ。

 「ワルハラ入城」で、ゲルマン神話のヴォータン一族がキリストをはじめアフリカ、インド、東洋、南太平洋など世界各所の宗教者(?)を招待する場面は、ある意味で最もアイロニーに富んだものと言えよう(今日的な意義を持つとすれば此処かなとも思わせる個所だ)。
 この光景を見れば、本来ならヴォータンがユートピアを目論んでいたということにもなるのだが、そうは行かないところがこの「指環」の物語たるゆえんだろう。あたかもナチが主催したベルリン・オリンピックのごとき「見せかけの繁栄」を端的に示したアイディアとして、私はこの場面の演出、気に入っている。

 演技の細部においては、プレミエ時と多少違うところもあるような気もするが、そこまでは詳細な記憶がない。今回の再演に関しては、キース・ウォーナー自身は自らの意向に反して手直しなどにタッチすることができず、その代わりに、プレミエの際に演出助手をつとめていたマティアス・フォン・シュテークマンが演出進行を受け持ったということである。その是非は、ここで詳述する余裕はない。

 歌手陣は、前回と異なってシングル・キャストだった。
 アルベリヒのユルゲン・リンが声も演技も強力で、一夜の主人公的存在となった感がある。これに対し、ヴォータンのユッカ・ラシライネンとローゲのトーマス・ズンネガルドは、予想に反して無難な出来という程度。また、エレナ・ツィトコーワがフリッカ役でかなり癖のある演技と歌唱を示し、エルダのシモーネ・シュレーダーも強力な存在感で映えた。
 しかし、これらの外国勢に比べ、日本勢ではミーメの高橋淳が達者なところを披露したにとどまった。特にドンナーとフロー、および2人の巨人――ファーフナーとファーゾルトが声でも演技でも外人勢に対して迫力を欠いたのは、やはり力の限界なのかと残念だ。

 指揮はダン・エッティンガー。やや遅めのテンポを採り、第2場などでは少し緊張感に乏しいきらいもあったが、さすがにバレンボイム仕込だけあって(?)ワーグナーの音楽の良さを味わわせてくれたようだ。
 東京フィルも、ホルンが終始なんとも頼りなかったことを除けば、前回上演の雪辱戦としては辛うじて面目を保ったか。少なくとも弦の響きは良かったし、音のふくらみという点でも少しは水準に近づいたかなという感。

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