2024-03

2009・3・9(月)クリストフ・プレガルディエンの
シューベルト:「美しき水車屋の娘」

  HAKUJU HALL

 先日のリサイタルと同じく、感情こめて囁くような表現から怒りに燃えて叫ぶような表現まで、きわめて振幅の激しい劇的な歌唱だ。
 旋律の上では反復の形を採る曲においても、歌詞の変化に応じて各節ごとに表情を変えて行くあたりの呼吸は――もちろん、一流歌手なら誰もがやっていることではあるが――この人も実に巧みである。冒頭の「さすらい」からして、このたった1曲の間に、旅に出る若者の心がみるみる変化し昂揚していく模様が鮮やかに描かれて行く。2曲目の「どこへ?」にかけてのテンポの良さから生れる快さはどうだろう。旅立ちにおける希望というものは、まさにこういう躍動感であるに違いない。

 ただ、この人の歌は、劇的ではあるといっても、それはやはり理詰めに設計された構築のものである。私はかつて「水車屋と小川」(第19曲)の最終個所でヘルマン・プライが聴かせたような、音楽がみるみる浄化に向かって行った神秘的なニュアンスを忘れることができないのだが、プレガルディエンは、そんな陶酔感とは一歩を置いている。

 一方、ピアノのミヒャエル・ゲースだが、先日よりはずっときれいなペダルの使い方だったのはありがたい。声楽パートの感情を敏感にピアノに反映させるというニュアンスの細かさという点では、この人は確かに優れたものを持っているだろう。「さすらい」の冒頭の8分音符と16分音符を(某ピアニストのように)どたばたと強調したスタッカートでなく、なだらかに開始したのも賢明である。

 ただ、激しい感情の爆発を描くためとはいえ、あまりに度外れた轟音をつくる彼の演奏には、私はどうにも賛意を表しかねる。
 たとえば最後の「小川の子守歌」の第4節「離れなさい水車場の橋から、悪い少女よ」(石井不二雄訳)に移るくだり、pの中に突然たたきつけるようなフォルティシモを挿入するのは如何なものだろう。その解釈だと、「小川」が、不運な若者を悼むあまり激怒して「不実な」少女を威嚇する――といった表現になるわけで、それはそれで面白いだろうが、シューベルト自身は、ここでは楽譜にフォルテすら書き入れていないのである。
 また、アンコールで演奏された「菩提樹」。「冷たい風が(突然)真正面から僕の顔を打った」に入る直前の個所――ここは確かに音楽が一転する劇的な個所には違いないが、シューベルトがここのピアノのパートに書き入れた強弱指定は「フォルツァート」なのであり、今日ゲースが演奏したような「フォルテ3つ」の轟音のごときものでは決してないのだ。

 こうした解釈やダイナミックスの誇張それ自体は、今日では別にめずらしい部類に入らないだろうし、私も面白いと思う。ただゲースの演奏は、あまりに才に溺れた作為的なものに聞こえてしまうのである。もっともこれは、もちろんプレガルディエン自身が承知したものであるはずだし、彼の解釈と一体になっていると考えなければならないのだが。
 

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