2024-03

2023・4・19(水)新国立劇場 ヴェルディ:「アイーダ」

      新国立劇場オペラパレス  6時

 1998年1月、新国立劇場開場記念として制作されたプロダクション。あの時には他にも「ローエングリン」と團伊玖磨の「建・TAKERU」とが制作されたが、その中でこの「アイーダ」だけが現在まで残っている。

 何しろ故フランコ・ゼッフィレッリの演出・舞台美術・衣装による豪華絢爛たる正真正銘のグランドオペラ・タイプの舞台なので、以降5年ごとの節目のシーズンに上演されて来たのも尤もなことであろう。私もその都度、観る機会を得た(当ブログでは☞2008年3月10日、☞2013年3月24日、☞2018年4月22日)。

 それにしても、古代エジプトを模した巨大な神殿・王宮の装置、「エジプト軍凱旋の場」における兵士・群衆、奴隷・ダンサーなどを含む何百人という登場人物など、こんな大がかりな舞台によるプロダクションは、今では世界のどの歌劇場も新制作できないだろう。それは制作費の問題もあり、また今日の演出スタイルが昔とは一変しているからでもある。

 だが一方、豪華な舞台という良き時代のグランドオペラのスタイルに愛着を持つオペラ・ファンは今でも多い。それゆえ、わずかにMETや「東京国立歌劇場」などいくつかのハウスが、規模の大小の差はあれ、保存されているプロダクションを大切に上演し、ファンを喜ばせているということになる。

 今回、この新国立劇場のこの「アイーダ」を観て、さすがに6度目となると、ひと時代前のスタイルだなという印象が強くなって来る。
 それに再演6度目となれば、如何に再演演出家として粟国淳が起用されていようとも、やはり舞台にある種の「緩さ」が生じているという印象を抑え切れない━━例えば第2幕のアイーダとアムネリスの場面、第3幕のアイーダとアモナズロの場面、第4幕のラダメスとアムネリスの場面など、登場人物の心理の変化が微細に、しかも緊迫感を以って描かれなければいけないような個所で、それが感じられてしまうのである。

 だが、初めてオペラを観に来た人々、滅多に歌劇場等に足を踏み入れないけれども「豪華なアイーダ」ということで家族・友人と一緒に観に来たような人々は、やはりこの壮麗な舞台に満足し「オペラもいいもんだ」と言うだろう。そういう人たちのためにも、この上演は有意義である。ブロードウェイの「オペラ座の怪人」のように、客足が落ちるまで上演して行く、というのがいいだろう。今日は7回上演の6日目だったが、ほぼ満席と思われた。

 さて今回の上演では、カルロ・リッツィ指揮の東京フィルハーモニー交響楽団と新国立劇場合唱団、セレーナ・ファルノッキア(エチオピア王女アイーダ)、ロベルト・アロニカ(エジプトの将軍ラダメス)、アイリーン・ロバーツ(エジプト王女アムネリス)、須藤慎吾(エチオピア王アモナズロ)、妻屋秀和(エジプトの高僧ラムフィス)、伊藤貴之(エジプト国王)、十合翔子(巫女)、村上敏明(伝令)という顔ぶれだった。
 ヒロイン役とヒーロー役はいずれも有名な人だが、今日はどうも━━特に前半はあまり調子がよくなかったようである。歌手は生身の人間だから、たった1日の出来で実力を云々するのは避けたいし、事実、後半はかなり調子を取り戻していたようなのである。

 ロバーツはよく歌っていたが、第4幕前半の聴かせどころでは、やはりもっと「怒れる王女」の凄味と迫力が欲しかったところだ。邦人勢ではやはりラムフィス役の妻屋秀和が底力のある声で映えた。
 カルロ・リッツィもオペラでは定評のある指揮者だから期待していたのだが、これも相変わらず鷹揚な指揮ぶりで、「凱旋の場」も「ラダメスとアムネリスの応酬の場」も、緊迫感に不足する演奏になっていた。叙情的な音楽になる最終場面で彼の片鱗を聴かせたところを見ると、全体に劇的要素を抑制していたのかもしれなかったが━━。

 25分あるいは20分の休憩時間計3回(今どきのアイーダ上演では珍しいか)を含み、10時終演。

(余談)
 満席の入りで、しかも休憩時間3回ともなると、ロビーはこんなにも混雑するかと思われるほどになる。バーカウンターは繁盛したことであろう。オペラには滅多に来たことがないような人々も多いのは、大変結構なことだ。ただ、音楽がまだ鳴っているのに、幕が降り始めた途端に手を叩き始める人がいたのは困る。これは一昔前のスタイルだ。

 それにどういうわけか、今日の1階席後方には、厄介な御仁が少なからず居られて━━無遠慮に大きなクシャミをする御仁、前奏曲が始まっているのに延々とスマホの灯を消さぬ御仁、何秒に一度の割でずっと呼吸の際に唸り声を発する御仁、各幕に一度ずつピーピーと大きな機械音を発する御仁、こちらが通ろうとしても膝を引っ込めないので待っていたら逆切れして「何だよ」と怒り出した御仁。いやはや、賑わった「アイーダ」であった。

コメント

東条先生が、「余談」で、「賑わった」とまとめざるを得なかったのが、業界の厳しい現実を示している。折から選挙戦で、ホールやオケ本体に対する血税投入が議論になっている。こういう時代になっても、不要不急の最たるものにあげられるのは60年前と変わらない。音楽に理解のない聴衆は、長く聴いてきたものにとっては、愉快ではないが、そういう方々も味方に付けなければならない厳しさがある。

オペラやクラシックを息の長いものにするために、新たな顧客層に積極的にアプローチするべきです。問題は劇場側が禁止事項を周知徹底しないことだと思います。映画館では本編が始まる前に、くどいほどそれをやります。オペラやクラシックの会場でもやるべき。フライング拍手は悪気があってやってる訳ではないと思いますし、会場は音響がいいので、ごく小さい音でも騒音化している自覚もないと思います。簡単なアナウンスではなく、視覚に訴えるようなやり方で、例えば本編の登場人物と同じ衣装で寸劇をするなどして注意をひくとか。兎にも角にも周知徹底するべきだと思います。そうやって劇場側が敷居を下げることで、一見さんも足を運びやすくなることも考えられますし。こういう話をすると、演者さん側は賛成が多く、劇場側は及び腰になるそうです。これは劇場側(主催者側)が本気で取り組んで欲しい事項です。ちなみに私は招待客が多そうな来日公演の1階中央の後方の席は避けるようにしています。

寛容?

去年の暮れ、身障者団体の入ったコンサートに行ったことがある。事前にはわからなかったし、東条先生が「余談」で書かれていたようなことが、まとめて起こった。演奏者も気にしていたが、途中から諦めたようだった。事前にわかる場合もあるが、最近では、生まれたての赤ちゃんOKと言うコンサートもある。主催者等の、ここまでやってますアピールもあるし、鑑賞者は寛容になれ、と言うことだ。それも難しいが。

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