2023・7・17(月)佐渡裕指揮「ドン・ジョヴァンニ」邦人キャスト組
兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール 2時
Bキャスト(邦人組)の2日目を観る。
キャストは以下の通り━━大西宇宙(ドン・ジョヴァンニ)、平野和(レポレッロ)、高野百合絵(ドンナ・アンナ)、池田香織(ドンナ・エルヴィーラ)、城宏憲(ドン・オッターヴィオ)、森雅史(マゼット)、小林沙羅(ツェルリーナ)、妻屋秀和(騎士長)。
いい歌手陣を揃えたものだ。
第一に、いま日の出の勢いにある大西宇宙をタイトルロールに起用したのは大成功と言えよう。伸び伸びとした力のある声と闊達な演技で、若々しくエネルギッシュなドン・ジョヴァンニ像をつくり出した。道に外れた殺人を犯したとはいえ、スーパー・ヒーローでもなく、いやらしい放蕩者でもなく、どこかに爽やかなイメージを感じさせるジョヴァンニ像を描き出す点で、大西宇宙が現在の邦人歌手群の中に独自の存在感を確立したことは間違いないだろう。
その他の人びとの歌唱と演技も充実していた。池田香織のモーツァルトは滅多に聴く機会のないレパートリーだが、やや大人びて落ち着いて、分別も充分あるエルヴィーラというイメージがいい。高野百合絵のアンナは如何にも騎士長の娘に相応しい気品にあふれて適役で、これでコロラトゥーラのテクニックに磨きがかかれば文句のないところ。
小林沙羅のツェルリーナは明るさという点でも当たり役で、マゼット如きを夫にしたところで簡単に尻に敷いてしまうだろうと思われるしたたかさも表現している。
男性歌手陣では、レポレッロの平野和が予想通り本領を発揮、前半は少し控えめだったものの、後半にかけてぐんと調子を上げ、特に「地獄落ち」の場面では「ジョヴァンニの強力な相棒」という存在感を見事に打ち出した。
騎士長の妻屋秀和は不動のベテランの味、もちろん彼は「右利き」の剣士だが、石像としての場面では何故か前夜のエルスベアと同様、槍を左手に構えていた。一方、オッターヴィオの城宏憲と、マゼットの森雅史は、歌唱は見事ながら、これらの人物の性格表現の演技としてはやや物足りなかったように感じられる。
佐渡裕とオーケストラは、昨日の演奏よりも更に充実の度合いを高めていたように思われる。特にこの曲の特徴のひとつである木管の和声の妖艶なほどの妙味が素晴らしく、たとえば第1幕フィナーレの最初の方で、ジョヴァンニがツェルリーナを誘惑する個所での管楽器の響きなど、うっとりするような美しさにあふれていた。
同じフィナーレで、抑制したテンポから一気に宴会の明るいテンポに解放する瞬間の呼吸なども快適で、佐渡裕がこのオーケストラを見事に制御しているなと感服させられたほどである。
ツェルリーナの歌「ぶってよマゼット」では、その遅いテンポが小林沙羅と呼吸が合わなかったような感もあったが、一方「地獄落ち」の場面での重厚なテンポは見事な不気味さを出して、佐渡の指揮を讃えたいところだった。
デヴィッド・ニースの演出については、昨日も書いたが、「地獄落ち」場面でのジョヴァンニとレポレッロの主従関係に感動的な解釈を施した個所が、私は大いに気に入った。
また最後の六重唱の個所━━それぞれが「ジョヴァンニ・ロス」の感情に浸る場面で、レポレッロが例の「カタログ」を思い出深くひもとき、最後にそれを地にたたきつけて去ろうとしながら、オーケストラの後奏の個所で再びそのカタログが気になって振り向く‥‥といった一連の演技も面白い。
ここでは全員が、ジョヴァンニの幻影を消し去ろうとしつつも、なおそれから逃れられないような挙動を見せるという設定が、印象的な後味を感じさせるだろう。
もっとも、こういう手法は、必ずしも珍しいものではなく、以前には背景にジョヴァンニが再び姿を現して一同を愕然とさせる(その瞬間に暗転する)演出もあった。また古くは、ゲルハルト・ヒュッシュが日本でこれを演じた際、だれもいなくなった舞台にジョヴァンニが飛び出し、帽子を振って哄笑しながら姿を消す、という演出もあったという。
いずれもドン・ジョヴァンニは「永遠の存在」である、というイメージを打ち出す演出だが、私は実はこういう「余情に富む」幕切れというのがたまらなく好きなので‥‥。
Bキャスト(邦人組)の2日目を観る。
キャストは以下の通り━━大西宇宙(ドン・ジョヴァンニ)、平野和(レポレッロ)、高野百合絵(ドンナ・アンナ)、池田香織(ドンナ・エルヴィーラ)、城宏憲(ドン・オッターヴィオ)、森雅史(マゼット)、小林沙羅(ツェルリーナ)、妻屋秀和(騎士長)。
いい歌手陣を揃えたものだ。
第一に、いま日の出の勢いにある大西宇宙をタイトルロールに起用したのは大成功と言えよう。伸び伸びとした力のある声と闊達な演技で、若々しくエネルギッシュなドン・ジョヴァンニ像をつくり出した。道に外れた殺人を犯したとはいえ、スーパー・ヒーローでもなく、いやらしい放蕩者でもなく、どこかに爽やかなイメージを感じさせるジョヴァンニ像を描き出す点で、大西宇宙が現在の邦人歌手群の中に独自の存在感を確立したことは間違いないだろう。
その他の人びとの歌唱と演技も充実していた。池田香織のモーツァルトは滅多に聴く機会のないレパートリーだが、やや大人びて落ち着いて、分別も充分あるエルヴィーラというイメージがいい。高野百合絵のアンナは如何にも騎士長の娘に相応しい気品にあふれて適役で、これでコロラトゥーラのテクニックに磨きがかかれば文句のないところ。
小林沙羅のツェルリーナは明るさという点でも当たり役で、マゼット如きを夫にしたところで簡単に尻に敷いてしまうだろうと思われるしたたかさも表現している。
男性歌手陣では、レポレッロの平野和が予想通り本領を発揮、前半は少し控えめだったものの、後半にかけてぐんと調子を上げ、特に「地獄落ち」の場面では「ジョヴァンニの強力な相棒」という存在感を見事に打ち出した。
騎士長の妻屋秀和は不動のベテランの味、もちろん彼は「右利き」の剣士だが、石像としての場面では何故か前夜のエルスベアと同様、槍を左手に構えていた。一方、オッターヴィオの城宏憲と、マゼットの森雅史は、歌唱は見事ながら、これらの人物の性格表現の演技としてはやや物足りなかったように感じられる。
佐渡裕とオーケストラは、昨日の演奏よりも更に充実の度合いを高めていたように思われる。特にこの曲の特徴のひとつである木管の和声の妖艶なほどの妙味が素晴らしく、たとえば第1幕フィナーレの最初の方で、ジョヴァンニがツェルリーナを誘惑する個所での管楽器の響きなど、うっとりするような美しさにあふれていた。
同じフィナーレで、抑制したテンポから一気に宴会の明るいテンポに解放する瞬間の呼吸なども快適で、佐渡裕がこのオーケストラを見事に制御しているなと感服させられたほどである。
ツェルリーナの歌「ぶってよマゼット」では、その遅いテンポが小林沙羅と呼吸が合わなかったような感もあったが、一方「地獄落ち」の場面での重厚なテンポは見事な不気味さを出して、佐渡の指揮を讃えたいところだった。
デヴィッド・ニースの演出については、昨日も書いたが、「地獄落ち」場面でのジョヴァンニとレポレッロの主従関係に感動的な解釈を施した個所が、私は大いに気に入った。
また最後の六重唱の個所━━それぞれが「ジョヴァンニ・ロス」の感情に浸る場面で、レポレッロが例の「カタログ」を思い出深くひもとき、最後にそれを地にたたきつけて去ろうとしながら、オーケストラの後奏の個所で再びそのカタログが気になって振り向く‥‥といった一連の演技も面白い。
ここでは全員が、ジョヴァンニの幻影を消し去ろうとしつつも、なおそれから逃れられないような挙動を見せるという設定が、印象的な後味を感じさせるだろう。
もっとも、こういう手法は、必ずしも珍しいものではなく、以前には背景にジョヴァンニが再び姿を現して一同を愕然とさせる(その瞬間に暗転する)演出もあった。また古くは、ゲルハルト・ヒュッシュが日本でこれを演じた際、だれもいなくなった舞台にジョヴァンニが飛び出し、帽子を振って哄笑しながら姿を消す、という演出もあったという。
いずれもドン・ジョヴァンニは「永遠の存在」である、というイメージを打ち出す演出だが、私は実はこういう「余情に富む」幕切れというのがたまらなく好きなので‥‥。
コメント
良いものと良くないものと
ドンジョバンニ7/17日大西宇宙氏のドンジョバンニ良かったが、半世紀前に聞いた大橋国一氏の雄渾で品のある歌唱が今も思い出される。藤原オペラで日本語だった。
期待の池田香織さんだけが不調に思えたがその後キャンセルされたようで回復を願いたい。佐渡氏の指揮は少し重いと思えたが最後の騎士長との場面はそれが功を奏し序曲が戻ってくる絃の刻みは見事で鳥肌ものでした。
期待の池田香織さんだけが不調に思えたがその後キャンセルされたようで回復を願いたい。佐渡氏の指揮は少し重いと思えたが最後の騎士長との場面はそれが功を奏し序曲が戻ってくる絃の刻みは見事で鳥肌ものでした。
開演前から幕が開いていて、音楽を切ることなく続く場面で登場したレポレッロはいただけない。平野和さんという人はウィーンで活躍しているようで、昨年の西宮の「ボエーム」でコッリーネを歌ったのだが、印象に残っていない。今回の役のように台詞、レチタティーヴォ、アンサンブル、アリアと出番が多かったわけではなかったからか。とにかくイタリア語のディクションが甘い。言葉に明瞭さがなく、この言語の持つシャープさとはほど遠い。パートのボリュームからして、言葉を磨き上げる余裕がなかったのかも。キャリアからするとドイツ語には馴染んでいるのかも知れないけど、これじゃイタリアものは難しい。この作品、モーツァルトはイタリア語に曲を付けている。声楽の原点は言葉、聴く側が言葉の意味を解る解らないはともかく、音楽と一体となった言葉の響きは重要だと思う。だから言語上演するわけだし、そこのところをしっかり理解してほしい。せっかくの声なのだから、精進を期待したい。
出だしでがっかりしたのが、高野百合絵さんの登場で持ち直した。ふつう、男声は良くてもソプラノの言葉が不明瞭なことが多いのだが、全く逆だった。声の若々しさと張り、コロラトゥーラに進化の余地はあるにしても、どこに出しても恥ずかしくない第一級のドンナ・アンナだ。おそらく初めて聴く人、こんな歌い手がいたんだ。まだ若い人だし、今後のキャリアの発展が楽しみだ。
タイトルロールの大西宇宙さん、キャストの目玉だったのは疑いがない。舞台映えのする容姿、ジョヴァンニ役のバリトンにはうってつけの人材だろう。昔の人なので舞台を見たことはないが、チェーザレ・シェピみたいなものか。大詰めの食事の場面では、おばさまへのサービスなのか上半身裸になっての着替えまである。格好良さづくしかと思えば、冒頭の騎士長との対決ではやられそうになるという不格好さもある。短剣を弾き飛ばされ、従者の短剣を取り上げて隙をみて一刺しという狡さ。演出家が描こうとする人物像がいまひとつ解らないが、颯爽としたというよりもダークサイドが強調されているような。それで歌はどうなのかというと、もっと良くなるのではないかと思うが、この日聴く限りではパワー炸裂とまでは行かない。後半日程だとたぶん違ってくると思う。
池田香織さんのドンナ・エルヴィーラ、これはどう評価したらいいのか判らない。ブリュンヒルデを歌うような人が取り組む役ではないと思うが、ワーグナーも歌いモーツアルトも歌いバランスを取る、声を維持するには適切という見方もできる。ただ、聴く限りではワーグナーの感じで歌ってしまっているような印象もある。この役のイメージ、声のイメージとは距離があるように感じた。それがアンサンブルでの違和感にも繫がる。
小林沙羅さんのツェルリーナは役柄にあっているのだが、可愛さの路線でいいとは言えない、このキャラクターに潜む悪の部分を表出できているかどうかは疑問符が付く。まあ、それは、モーツァルトがオーケストラの中に毒を含ませているから、そっちに任せてということなのかも。
というようなことで、東条さんの評価とは少しずれがあるような気がします。
このシリーズ、今年で18周年ということで、プログラムには来年の演目として再演の「蝶々夫人」がアナウンスされていました。取り上げる名作が一巡したということなんだろうか。多回数公演だから、集客の見込める安全第一の路線になるのは仕方ないにしても、かつての「キャンディード」みたいな攻めの姿勢も見たい気がします。