2023・10・13(金)東京二期会「ドン・カルロ」
東京文化会館大ホール 4時
シュトゥットガルト州立劇場との提携公演として、ロッテ・デ・ベア(ウィーン・フォルクスオーパー芸術監督)が同劇場で2019年秋に演出した新プロダクションが上演された。
第1幕に「フォンテンブローの森」の場面を復活させた5幕版によるイタリア語上演だが、モデナ版ともまた違い、独自の手が加えられている。
今回は、横須賀で1回、札幌で2回、東京で3回━━というスケジュールがダブルキャストで組まれ、今日が東京初日公演である。
出演は、樋口達哉(ドン・カルロ)、竹多倫子(エリザベッタ)、小林啓倫(ロドリーゴ)、ジョン・ハオ(フィリッポ2世)、狩野賢一(宗教裁判長)、清水華澄(エボリ公女)、畠山茂(修道士)、中野亜維里(テバルド)、前川健生(レルマ伯爵)、七澤結(天よりの声)他。東京フィルハーモニー交響楽団と二期会合唱団。指揮は、新鋭レオナルド・シーニ。なお、舞台美術はクリストフ・ヘッツァー、照明はアレックス・ブロックだった。
とにかく、暗くて、重くて、悲劇の権化のような舞台だ。
プレトークを行なった演出家ロッテ・デ・ベアによれば、舞台は30年後の世界で、地球温暖化はいよいよ進み、難民が増加し、宗教(キリスト教)が再び力を増し、その権力の中で自由が失われて行き、暴力と殺人が進み、主人公カルロはその中で精神を病んで行く━━という設定にされている。
たしかにこれらは、決して読み替えではなく、もともと作品に内在している要素であろう。彼女の演出は、それを所謂グランドオペラ的な、豪壮華麗な色彩感にあふれたスペクタクルな舞台に仕上げるのではなく、権力、難民、戦争、政治の暗部、自由への欲求、闘争などの部分のみを浮き彫りにする解釈なのである。従って、暗く重い舞台になるのは当然である。
「伝統的な手法で舞台をつくれば、ただ昔の人たちはそうだったんだな、ということだけで済んでしまう。だが自分はこの物語を、現代の世界で現実に起こっている事柄を象徴するものとして描き出したい」とデ・ベアは言う。ヨーロッパではもうずいぶん以前から試みられている手法ではある。
そうした視点から見ると、今回の「ドン・カルロ」は、かなりよく出来た舞台と言えるのではないか。冒頭シーンで悲惨な難民の群れが現れ、「政略結婚により戦争が終って平和が甦るのなら、王族たちはどうか自分を犠牲にしてでもわれわれ難民を救って欲しい」とエリザベッタに迫る場面など、いかにも現代の難民の心理そのものだろう。事あるごとに現れては暴力をふるう警吏(軍隊)など、観ていると不愉快にはなるけれども、戦争が起こっている地域では、それは日常の出来事であるはずである。
オペラをただの美しい娯楽と考えている人々には、劇中の火刑や処刑、暗殺といった場面はただの絵空事にしか感じられないので、今回のような現実的な演出は、概して嫌われることになろう。だが一方、世界のオペラ演出界に於いてはありふれたものになっている手法を全く無視するわけには行くまい。その意味で、二期会が続けているこの路線は、意義あるものであると私は思う。
演出の細部について二、三メモすれば、例えばあのスペクタクルな「火刑の場面」は現れない。その代わり、その場面に先立ち、バレエ音楽のパロディとしてヴィンクラーの「プッシー・ポルカ」なる曲が演奏され、ここで人形が火刑にされるグロテスクな光景が展開され、カルロがそれを「幻想」として目の当たりにする、という場面が挿入される。
これがカルロを狂気に導く決定的な引き金となるのは明らかであろう。そのあとのカルロの行動や言葉が常軌を逸したものになって行くのも、これで説明がつくというものである。
もうひとつは、カルロを導く「謎の修道士」を、先帝カルロ5世の亡霊などという訳の解らぬ存在にせず、最後まで修道士として押し切ったこと(彼は殺される)。これで最終場面は、オリジナルのト書きよりも遥かに明解になっただろう。
また、ちょっと面白い新解釈は、エボリ公女を異様な目つきで窺いつつコーラスにも参加していた女性が、実はエリザベッタのお付きの伯爵夫人で、エボリ公女をスパイする役目を持っていたという設定。その伯爵夫人が王から罰せられて追放されるという極端な処分に遭う(今回の演出では衛兵から殴る蹴るの暴行を受けて、多分殺されるのだろう)のも、この理由の方が筋も通る。
その他、フォンテーヌブローの森の場面で、カルロとエリザベッタがベッドシーンを見せる設定などは、2人がすでに深い関係を持ったことを強調するだろう。またフィリッポ2世が「妻(エリザベッタ)はわしを愛してはおらぬ」と嘆くアリアを歌う有名な場面でも、ベッドで彼女がそっぽを向いて寝ているという光景を加えることによって、より具体的な描き方になるだろう。
まあ、こんなのは、無くもがなの余計な設定と言えるかもしれないし、第一、フィリッポ2世がパジャマ姿であのアリアを歌うなどという光景には私も些か辟易せざるを得ないのだが、権力者の裏側を描き出すという点では、より具体的になったかもしれない。
終演後のカーテンコールでは、演出家にブーイングも飛んだ。日本の歌劇場では久しぶりのブーイングである。演出家もしてやったりの表情で、反応アリ、と喜んだのではなかろうか。欧州系の演出家は、おざなりの拍手よりも、積極的な賛否の反応を歓迎するからである。
音楽的な面のことを書く余裕がなくなった。若いレオナルド・シーニの指揮はなかなかいい。東京フィルが引き締まった演奏を聴かせてくれた。歌手陣の中では、革命家ロドリーゴを歌った小林啓倫が最も印象に残る。
シュトゥットガルト州立劇場との提携公演として、ロッテ・デ・ベア(ウィーン・フォルクスオーパー芸術監督)が同劇場で2019年秋に演出した新プロダクションが上演された。
第1幕に「フォンテンブローの森」の場面を復活させた5幕版によるイタリア語上演だが、モデナ版ともまた違い、独自の手が加えられている。
今回は、横須賀で1回、札幌で2回、東京で3回━━というスケジュールがダブルキャストで組まれ、今日が東京初日公演である。
出演は、樋口達哉(ドン・カルロ)、竹多倫子(エリザベッタ)、小林啓倫(ロドリーゴ)、ジョン・ハオ(フィリッポ2世)、狩野賢一(宗教裁判長)、清水華澄(エボリ公女)、畠山茂(修道士)、中野亜維里(テバルド)、前川健生(レルマ伯爵)、七澤結(天よりの声)他。東京フィルハーモニー交響楽団と二期会合唱団。指揮は、新鋭レオナルド・シーニ。なお、舞台美術はクリストフ・ヘッツァー、照明はアレックス・ブロックだった。
とにかく、暗くて、重くて、悲劇の権化のような舞台だ。
プレトークを行なった演出家ロッテ・デ・ベアによれば、舞台は30年後の世界で、地球温暖化はいよいよ進み、難民が増加し、宗教(キリスト教)が再び力を増し、その権力の中で自由が失われて行き、暴力と殺人が進み、主人公カルロはその中で精神を病んで行く━━という設定にされている。
たしかにこれらは、決して読み替えではなく、もともと作品に内在している要素であろう。彼女の演出は、それを所謂グランドオペラ的な、豪壮華麗な色彩感にあふれたスペクタクルな舞台に仕上げるのではなく、権力、難民、戦争、政治の暗部、自由への欲求、闘争などの部分のみを浮き彫りにする解釈なのである。従って、暗く重い舞台になるのは当然である。
「伝統的な手法で舞台をつくれば、ただ昔の人たちはそうだったんだな、ということだけで済んでしまう。だが自分はこの物語を、現代の世界で現実に起こっている事柄を象徴するものとして描き出したい」とデ・ベアは言う。ヨーロッパではもうずいぶん以前から試みられている手法ではある。
そうした視点から見ると、今回の「ドン・カルロ」は、かなりよく出来た舞台と言えるのではないか。冒頭シーンで悲惨な難民の群れが現れ、「政略結婚により戦争が終って平和が甦るのなら、王族たちはどうか自分を犠牲にしてでもわれわれ難民を救って欲しい」とエリザベッタに迫る場面など、いかにも現代の難民の心理そのものだろう。事あるごとに現れては暴力をふるう警吏(軍隊)など、観ていると不愉快にはなるけれども、戦争が起こっている地域では、それは日常の出来事であるはずである。
オペラをただの美しい娯楽と考えている人々には、劇中の火刑や処刑、暗殺といった場面はただの絵空事にしか感じられないので、今回のような現実的な演出は、概して嫌われることになろう。だが一方、世界のオペラ演出界に於いてはありふれたものになっている手法を全く無視するわけには行くまい。その意味で、二期会が続けているこの路線は、意義あるものであると私は思う。
演出の細部について二、三メモすれば、例えばあのスペクタクルな「火刑の場面」は現れない。その代わり、その場面に先立ち、バレエ音楽のパロディとしてヴィンクラーの「プッシー・ポルカ」なる曲が演奏され、ここで人形が火刑にされるグロテスクな光景が展開され、カルロがそれを「幻想」として目の当たりにする、という場面が挿入される。
これがカルロを狂気に導く決定的な引き金となるのは明らかであろう。そのあとのカルロの行動や言葉が常軌を逸したものになって行くのも、これで説明がつくというものである。
もうひとつは、カルロを導く「謎の修道士」を、先帝カルロ5世の亡霊などという訳の解らぬ存在にせず、最後まで修道士として押し切ったこと(彼は殺される)。これで最終場面は、オリジナルのト書きよりも遥かに明解になっただろう。
また、ちょっと面白い新解釈は、エボリ公女を異様な目つきで窺いつつコーラスにも参加していた女性が、実はエリザベッタのお付きの伯爵夫人で、エボリ公女をスパイする役目を持っていたという設定。その伯爵夫人が王から罰せられて追放されるという極端な処分に遭う(今回の演出では衛兵から殴る蹴るの暴行を受けて、多分殺されるのだろう)のも、この理由の方が筋も通る。
その他、フォンテーヌブローの森の場面で、カルロとエリザベッタがベッドシーンを見せる設定などは、2人がすでに深い関係を持ったことを強調するだろう。またフィリッポ2世が「妻(エリザベッタ)はわしを愛してはおらぬ」と嘆くアリアを歌う有名な場面でも、ベッドで彼女がそっぽを向いて寝ているという光景を加えることによって、より具体的な描き方になるだろう。
まあ、こんなのは、無くもがなの余計な設定と言えるかもしれないし、第一、フィリッポ2世がパジャマ姿であのアリアを歌うなどという光景には私も些か辟易せざるを得ないのだが、権力者の裏側を描き出すという点では、より具体的になったかもしれない。
終演後のカーテンコールでは、演出家にブーイングも飛んだ。日本の歌劇場では久しぶりのブーイングである。演出家もしてやったりの表情で、反応アリ、と喜んだのではなかろうか。欧州系の演出家は、おざなりの拍手よりも、積極的な賛否の反応を歓迎するからである。
音楽的な面のことを書く余裕がなくなった。若いレオナルド・シーニの指揮はなかなかいい。東京フィルが引き締まった演奏を聴かせてくれた。歌手陣の中では、革命家ロドリーゴを歌った小林啓倫が最も印象に残る。
コメント
今年のインターナショナルオペラアワード受賞者の演出が観れた事で、世界の潮流を感じることが出来たことを嬉しく思ってます。そのままワーグナー上演に使えそうな、スモークと美しい照明の薄暗い舞台は、日本ではなかなか出会えないものでした。美声のブーイングは組織化された方の様な気もしますが、サクラのブラボーよりもよほど劇場に活気を与えたような気がしています。
横須賀芸術劇場
横須賀での別キャストでの公演を一足先に鑑賞いたしました。フィリッポ2世の有名なアリアの場面でベッドにいたのはエボリ公女だったと思うのですが、その後、演出が変更されたのでしょうか。
それはさておき、冒頭からベッドシーンが登場することによって、後のエリザベッタの純潔の主張が空虚なものとなり、フィリッポ2世とエボリ公女の関係が具体的に示されることで分かりやすさが増したものの、有名なアリアが年の差夫婦の夫婦生活面の悩みになり下がり(笑)、国王と宗教裁判長の息詰まるやりとりも底の浅いものとなったというのが率直な印象であります。
しかしながら、歌唱とシーニ指揮東フィルは素晴らしい熱演で、全体としてはそれなりに満足度の高い公演だった(演出もまあ許容範囲内だったか)とも感じております。諸賢各位のご叱正をいただければ幸いです。
それはさておき、冒頭からベッドシーンが登場することによって、後のエリザベッタの純潔の主張が空虚なものとなり、フィリッポ2世とエボリ公女の関係が具体的に示されることで分かりやすさが増したものの、有名なアリアが年の差夫婦の夫婦生活面の悩みになり下がり(笑)、国王と宗教裁判長の息詰まるやりとりも底の浅いものとなったというのが率直な印象であります。
しかしながら、歌唱とシーニ指揮東フィルは素晴らしい熱演で、全体としてはそれなりに満足度の高い公演だった(演出もまあ許容範囲内だったか)とも感じております。諸賢各位のご叱正をいただければ幸いです。
ベッドにいたのは・・・
横須賀もベッドにいたのはエリザベッタだったと思いますよ。
良い公演でした。
良い公演でした。
そうでしたか、
さまよえるオペラ人さま
ご指摘いただき有り難うございました。宗教裁判長が登場したときにあわてて寝室から女性を追い払い、さらに宗教裁判長が脱ぎ捨ててあった下着を取り上げるといった流れから、エボリ公女の独白の中で明らかになるフィリッポ2世との不倫関係を舞台上で具体的に演じさせたものと思っておりました。
不正確なコメントとなりましたことご容赦ください。
PS 来月はマクベスですね。
ご指摘いただき有り難うございました。宗教裁判長が登場したときにあわてて寝室から女性を追い払い、さらに宗教裁判長が脱ぎ捨ててあった下着を取り上げるといった流れから、エボリ公女の独白の中で明らかになるフィリッポ2世との不倫関係を舞台上で具体的に演じさせたものと思っておりました。
不正確なコメントとなりましたことご容赦ください。
PS 来月はマクベスですね。
おっしゃる通りですね。
「欧州系の演出家は、おざなりの拍手よりも、積極的な賛否の反応を歓迎する」
拝読して、ペーター コンヴィチュニーが2008年二期会のオネーギンの初日のカーテンコールで、ブーイングを浴びて非常に嬉しそうだったのを思い出しました。
今年2月東京芸術劇場の『カヴァレリア』『道化師』でも、初日の方はブーイングが飛び交い、とても懐かしい気がしました。
拝読して、ペーター コンヴィチュニーが2008年二期会のオネーギンの初日のカーテンコールで、ブーイングを浴びて非常に嬉しそうだったのを思い出しました。
今年2月東京芸術劇場の『カヴァレリア』『道化師』でも、初日の方はブーイングが飛び交い、とても懐かしい気がしました。
今回の演出は、ヴェルディが楽譜に紡いだ繊細さや奥ゆかしさに対して、ことごとく逆張りをして、作品本来の魅力を破壊。初日カーテンコールでの演出チームに対するブーイングの大大大合唱は当然。ヴェルディの音楽に対する理解の無さに、怒りしか湧きませんでした。
この演出家は、台本の不足を補うとともに現代に受け入れられる新たな境地を開拓したと得意気なのでしょうね。このような表現がドイツを中心に流行っているのも承知していますが、個人的には、これは演出家自身による改編版の称するべきであって、これがヴェルディの世界と勘違いされては困ります。
欧州の演出の輸入については、そもそもレジーテアターを受け入れる文化的な土壌があるかも考えないと。ドイツ等では、作品を知り尽くしたマニアが集い、作品をネタに新しい表現の可能性を観にきている節があります。ドン・カルロなんて、欧州では毎年山ほど上演されていますから。しかし日本では、たった数日のために何ヶ月もかけて準備して上演するわけです。上演する側も観る側も環境が違いすぎます。欧州の流行を最先端として輸入するという発想自体がダサいと思います。現代的センスも読み替えも否定しませんが、楽譜と台本に反する上演は、私自身許せませんし、そもそも日本では望まれていません。
今回の上演については、評論家の皆様の中でも賛否両論ですが、少なくともヴェルディの作品を評価するにあたっては、楽譜との平仄が合っていたのかという観点を適切に議論していただきたい。他の作曲家では、版の違いや校訂版における記譜の細かな差異にまで言及されるのですから。私個人としては、今回の演出はヴェルディの和声感やニュアンスには完全に相反していたと思っています。
この演出家は、台本の不足を補うとともに現代に受け入れられる新たな境地を開拓したと得意気なのでしょうね。このような表現がドイツを中心に流行っているのも承知していますが、個人的には、これは演出家自身による改編版の称するべきであって、これがヴェルディの世界と勘違いされては困ります。
欧州の演出の輸入については、そもそもレジーテアターを受け入れる文化的な土壌があるかも考えないと。ドイツ等では、作品を知り尽くしたマニアが集い、作品をネタに新しい表現の可能性を観にきている節があります。ドン・カルロなんて、欧州では毎年山ほど上演されていますから。しかし日本では、たった数日のために何ヶ月もかけて準備して上演するわけです。上演する側も観る側も環境が違いすぎます。欧州の流行を最先端として輸入するという発想自体がダサいと思います。現代的センスも読み替えも否定しませんが、楽譜と台本に反する上演は、私自身許せませんし、そもそも日本では望まれていません。
今回の上演については、評論家の皆様の中でも賛否両論ですが、少なくともヴェルディの作品を評価するにあたっては、楽譜との平仄が合っていたのかという観点を適切に議論していただきたい。他の作曲家では、版の違いや校訂版における記譜の細かな差異にまで言及されるのですから。私個人としては、今回の演出はヴェルディの和声感やニュアンスには完全に相反していたと思っています。