2023・11・15(水)新国立劇場の「シモン・ボッカネグラ」初日
新国立劇場オペラパレス 7時
ヴェルディのオペラ「シモン・ボッカネグラ」を新国立劇場が制作したのは、今回が初めてである。
フィンランド国立歌劇場とテアトロ・レアル(マドリードの王立歌劇場)との共同制作によるものだが、嘆かわしいレパートリーの穴を埋めるものとして、しかも音楽的にも演出の上でも高い水準のプロダクションとして上演されたのは有難いことであった。
まず第一に、大野和士の指揮する東京フィルハーモニー交響楽団が、極めて緻密な、バランスの良い演奏を聴かせていたことを挙げなくてはなるまい。
冒頭の弦の叙情的な美しさなど、これまでの「オケ・ピットにおける東京フィル」からはあまり聴けないものであった。大野和士が芸術監督になってから、特にこの1年ほどの間に、「新国立劇場のオーケストラ」の演奏水準は、目に見えて向上して来たように思われる。
そして今回の歌手陣━━これも充実していた。
顔ぶれは、ロベルト・フロンターリ(ジェノヴァの総督シモン・ボッカネグラ)、イリーナ・ルング(シモンの娘アメーリア)、ルチアーノ・ガンチ(その恋人ガブリエーレ・アドルノ)、シモーネ・アルベルギーニ(総督の腹心パオロ・アルビアーニ)、リッカルド・ザネッラート(アメーリアの祖父ヤコポ・フィエスコ)、須藤慎吾(パオロの同志)、村上敏明(隊長)、鈴木涼子(侍女)。
これらの人たちが全員、完璧なほどの歌唱で活躍していたのが嬉しい。初日ということもあってか、一部の歌手は立ち上がりが悪かったけれども、このくらいは仕方のないことだろう。特にザネッラートは歌唱・演技とも堂々たるもので、この「シモンの政敵」をすこぶる公平な、むしろ立派な人物として描き出していたのが面白かった。
そして第三に、ピエール・オーディの演出とアニッシュ・カプーアの舞台美術である。
このすこぶる入り組んだ人物構図と複雑極まる筋書きを、オーディは徒な装飾を排し、極めてシンプルな形で、人物の性格表現にのみ重点を置いて構築していた。ただ、それでもプロローグと第1幕の間に長い年月があったこととか、舞台上の人物の判別とかなどの点で、いささか解り難いものがあったことは事実で━━しかしこれはもう、観客みずからが予め人物関係を調べて覚えておく以外に方法はないだろう。何しろ、どう説明したところで、ややこしいストーリーなのだから‥‥。
私が舌を巻いたのは、プロローグの最後の場面で遺体として横たわっていたマリア(シモンの妻、フィエスコの娘)の姿を、25年後の舞台たる第1幕で、そのまま娘のアメーリアに引き継がせ、そこから起き上がらせて次のドラマに入って行くという発想だ。アメーリアがマリアの娘で、洗礼名もマリアだったことが、このすり替えによって象徴させているというわけである。
カプーアの抽象的な舞台美術も印象に残る。総じて暗いが、黒色と赤色が効果的に対比されていて、特に天から逆さに吊られている火山が「対立抗争、憎悪」の象徴とされ、ラストシーンなどで平和が訪れた時にはそれが姿を消す━━といったような構図が面白い。
これは、近年の新国立劇場のプロダクションの中でも、ベストの部類に入る上演ではないかと思う。大野和士芸術監督の努力の成果であることは疑いないだろう。
30分の休憩1回を含め、上演時間は約3時間。
ヴェルディのオペラ「シモン・ボッカネグラ」を新国立劇場が制作したのは、今回が初めてである。
フィンランド国立歌劇場とテアトロ・レアル(マドリードの王立歌劇場)との共同制作によるものだが、嘆かわしいレパートリーの穴を埋めるものとして、しかも音楽的にも演出の上でも高い水準のプロダクションとして上演されたのは有難いことであった。
まず第一に、大野和士の指揮する東京フィルハーモニー交響楽団が、極めて緻密な、バランスの良い演奏を聴かせていたことを挙げなくてはなるまい。
冒頭の弦の叙情的な美しさなど、これまでの「オケ・ピットにおける東京フィル」からはあまり聴けないものであった。大野和士が芸術監督になってから、特にこの1年ほどの間に、「新国立劇場のオーケストラ」の演奏水準は、目に見えて向上して来たように思われる。
そして今回の歌手陣━━これも充実していた。
顔ぶれは、ロベルト・フロンターリ(ジェノヴァの総督シモン・ボッカネグラ)、イリーナ・ルング(シモンの娘アメーリア)、ルチアーノ・ガンチ(その恋人ガブリエーレ・アドルノ)、シモーネ・アルベルギーニ(総督の腹心パオロ・アルビアーニ)、リッカルド・ザネッラート(アメーリアの祖父ヤコポ・フィエスコ)、須藤慎吾(パオロの同志)、村上敏明(隊長)、鈴木涼子(侍女)。
これらの人たちが全員、完璧なほどの歌唱で活躍していたのが嬉しい。初日ということもあってか、一部の歌手は立ち上がりが悪かったけれども、このくらいは仕方のないことだろう。特にザネッラートは歌唱・演技とも堂々たるもので、この「シモンの政敵」をすこぶる公平な、むしろ立派な人物として描き出していたのが面白かった。
そして第三に、ピエール・オーディの演出とアニッシュ・カプーアの舞台美術である。
このすこぶる入り組んだ人物構図と複雑極まる筋書きを、オーディは徒な装飾を排し、極めてシンプルな形で、人物の性格表現にのみ重点を置いて構築していた。ただ、それでもプロローグと第1幕の間に長い年月があったこととか、舞台上の人物の判別とかなどの点で、いささか解り難いものがあったことは事実で━━しかしこれはもう、観客みずからが予め人物関係を調べて覚えておく以外に方法はないだろう。何しろ、どう説明したところで、ややこしいストーリーなのだから‥‥。
私が舌を巻いたのは、プロローグの最後の場面で遺体として横たわっていたマリア(シモンの妻、フィエスコの娘)の姿を、25年後の舞台たる第1幕で、そのまま娘のアメーリアに引き継がせ、そこから起き上がらせて次のドラマに入って行くという発想だ。アメーリアがマリアの娘で、洗礼名もマリアだったことが、このすり替えによって象徴させているというわけである。
カプーアの抽象的な舞台美術も印象に残る。総じて暗いが、黒色と赤色が効果的に対比されていて、特に天から逆さに吊られている火山が「対立抗争、憎悪」の象徴とされ、ラストシーンなどで平和が訪れた時にはそれが姿を消す━━といったような構図が面白い。
これは、近年の新国立劇場のプロダクションの中でも、ベストの部類に入る上演ではないかと思う。大野和士芸術監督の努力の成果であることは疑いないだろう。
30分の休憩1回を含め、上演時間は約3時間。
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残り3年に期待
23日の新国立劇場での「シモン・ボッカネグラ」と、26日の藤沢市民オペラの「オテッロ」のセットで首都圏に遠征。どちらも男ばっかりという共通点があるのがおかしい。前者は低声部なら、後者はテノールばっかり。
さて、プロローグ付きの3幕、休憩が1回だけというので、どこで切るのかと思ったら第1幕と第2幕の間、時間配分を考えたらそうなるのだけど、プロローグと本編の間には長い年月の経過があるので、続けるというのはどうかという気もする。ただ、プロローグで若きシモン・ボッカネグラが恋人マリアの亡骸に取り縋って終わるシーンがそのままに、第1幕で娘アメーリアとなって物語が続くという仕掛けは、プロローグから切らずに続ける意味がある演出かと思う。ただ、この部分だけが東条さんに同感で秀逸だったのに、ピエール・オーディの演出、アニッシュ・カプーアの美術は、なんだこりゃというところばかりで、独りよがりの感を免れない。
プロローグでゴキブリの如く匍匐前進する群衆は何の含意なのか。装置は抽象的ということなんだろうが、火山を天地ひっくり返したとかで、天井からぶら下がる装置から時折り噴煙が下方に噴き出す。終幕では溶岩を模したらしい赤い塊が散らばってという舞台。何を表現したいのかさっぱりわからない。聞いたところで、「あっ、そう」というのが関の山。幕切れには、ぶら下がっていた火山が萎んで黒い月となる。これは皆既月食か。もうそんな具合で、再演されても見たいとは思わない代物だ。まあそれでも稀にあるアタリを求め、新演出は見逃せないのだけど。
私見では演出にはほとんど見るべきところがないが、演奏のほうは立派なもの。コロナの3年間があり、やりたいことが充分できなかっただろう大野和士芸術監督としては、力の入る新国立劇場初演作品なのだ。ピットでは気の抜けたルーチン的な演奏が多い東京フィルにしては、見違えるような集中ぶりとの印象を受けた。比べるのはなんだけど、こういうところ、ウィーン国立歌劇場のオーケストラと似ている。まあ、どんなオーケストラにしても多かれ少なかれそういうところがある。「シモン・ボッカネグラ」では10年前のネロ・サンティ指揮のNHK交響楽団がそうだった。あのときのオーケストラはいいほうに突き抜けた演奏だった。そこまでいかないが、この日の東京フィルはいい線を行っている。
歌手のほうも立派なものだ。ここまでの水準で揃うのは珍しい部類ではないだろうか。著名オペラハウスの来日公演のようにビックネームを並べたからといって、素晴らしい舞台になるとは限らないのが面白いところで、今回のキャストの男声陣のように適材適所に配されるとオペラの楽しみが増幅する。ただ、手放しで絶賛とならないのは、アメーリア役のイリーナ・ルングに終始感じた違和感があったから。この人ひとり、全く歌のスタイルが違うのだ。主役級のイタリア人歌手の中にロシア人、歌唱としては十分にしてもディクションが異質、歌詞が聞き取りづらいうえに、響きが違うからアンサンブルの場面ではちっとも溶け合う感じがしない。極端だったのは恋人ガブリエーレ・アドルノ役のルチアーノ・ガンチとの場面、テノールがイタリア声そのものだけに、水と油のようになってしまう。ルングはイタリアでのキャリアも築いているようだけど、舞台映えする容姿もあって過大評価されているんじゃないだろうか。私は初めて聞く人なので、アメーリアの印象だけでの決めつけはいけないとは思うが。
4年サイクルで芸術監督が交代してきた新国立劇場、その期間で、この世界で、いい仕事をするのは至難の技だし、コロナという想定外の障碍も発生した。大野さんは再任となって都合8年、残る3年間での大いなる成果を期待したい。
さて、プロローグ付きの3幕、休憩が1回だけというので、どこで切るのかと思ったら第1幕と第2幕の間、時間配分を考えたらそうなるのだけど、プロローグと本編の間には長い年月の経過があるので、続けるというのはどうかという気もする。ただ、プロローグで若きシモン・ボッカネグラが恋人マリアの亡骸に取り縋って終わるシーンがそのままに、第1幕で娘アメーリアとなって物語が続くという仕掛けは、プロローグから切らずに続ける意味がある演出かと思う。ただ、この部分だけが東条さんに同感で秀逸だったのに、ピエール・オーディの演出、アニッシュ・カプーアの美術は、なんだこりゃというところばかりで、独りよがりの感を免れない。
プロローグでゴキブリの如く匍匐前進する群衆は何の含意なのか。装置は抽象的ということなんだろうが、火山を天地ひっくり返したとかで、天井からぶら下がる装置から時折り噴煙が下方に噴き出す。終幕では溶岩を模したらしい赤い塊が散らばってという舞台。何を表現したいのかさっぱりわからない。聞いたところで、「あっ、そう」というのが関の山。幕切れには、ぶら下がっていた火山が萎んで黒い月となる。これは皆既月食か。もうそんな具合で、再演されても見たいとは思わない代物だ。まあそれでも稀にあるアタリを求め、新演出は見逃せないのだけど。
私見では演出にはほとんど見るべきところがないが、演奏のほうは立派なもの。コロナの3年間があり、やりたいことが充分できなかっただろう大野和士芸術監督としては、力の入る新国立劇場初演作品なのだ。ピットでは気の抜けたルーチン的な演奏が多い東京フィルにしては、見違えるような集中ぶりとの印象を受けた。比べるのはなんだけど、こういうところ、ウィーン国立歌劇場のオーケストラと似ている。まあ、どんなオーケストラにしても多かれ少なかれそういうところがある。「シモン・ボッカネグラ」では10年前のネロ・サンティ指揮のNHK交響楽団がそうだった。あのときのオーケストラはいいほうに突き抜けた演奏だった。そこまでいかないが、この日の東京フィルはいい線を行っている。
歌手のほうも立派なものだ。ここまでの水準で揃うのは珍しい部類ではないだろうか。著名オペラハウスの来日公演のようにビックネームを並べたからといって、素晴らしい舞台になるとは限らないのが面白いところで、今回のキャストの男声陣のように適材適所に配されるとオペラの楽しみが増幅する。ただ、手放しで絶賛とならないのは、アメーリア役のイリーナ・ルングに終始感じた違和感があったから。この人ひとり、全く歌のスタイルが違うのだ。主役級のイタリア人歌手の中にロシア人、歌唱としては十分にしてもディクションが異質、歌詞が聞き取りづらいうえに、響きが違うからアンサンブルの場面ではちっとも溶け合う感じがしない。極端だったのは恋人ガブリエーレ・アドルノ役のルチアーノ・ガンチとの場面、テノールがイタリア声そのものだけに、水と油のようになってしまう。ルングはイタリアでのキャリアも築いているようだけど、舞台映えする容姿もあって過大評価されているんじゃないだろうか。私は初めて聞く人なので、アメーリアの印象だけでの決めつけはいけないとは思うが。
4年サイクルで芸術監督が交代してきた新国立劇場、その期間で、この世界で、いい仕事をするのは至難の技だし、コロナという想定外の障碍も発生した。大野さんは再任となって都合8年、残る3年間での大いなる成果を期待したい。