2023・11・19(日)びわ湖ホールの「こうもり」
滋賀県立劇場びわ湖ホール 2時
全国共同制作オペラ、J・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」が上演された。阪哲朗指揮、野村萬斎演出で、歌唱はドイツ語、セリフは日本語(台本は野村萬斎による)という形である。
今日の出演は以下の通り━━福井敬(アイゼンシュタイン)、森谷真理(妻ロザリンデ)、幸田浩子(女中アデーレ)、大西宇宙(ファルケ博士)、山下浩司(刑務所長フランク)、与儀巧(歌手アルフレード)、藤木大地(オルロフスキー公爵)、晴雅彦(弁護士ブリント)、佐藤寛子(イーダ)、桂米團治(フロッシュ、狂言回し)。日本センチュリー交響楽団とびわ湖ホール声楽アンサンブル。
かなり奇抜な趣向を凝らした舞台だ。このプロダクションは、今月25日に東京、12月17日に山形でも上演されるので、ネタバレを避ける意味で詳細を記すのは控えるが、演出家のノートによれば「日本人が演じてもおかしくない自然なシチュエーションという発想」に基づく舞台だという。従って今回の情景は、第1幕が日本橋界隈の質屋の茶の間、第2幕が鹿鳴館、第3幕が牢屋というわけ。
アイゼンシュタインは和服姿の質屋の主人、ロザリンデは逸品の着物を召した奥様、アデーレは可愛い働き者の女中、ファルケ博士は西洋かぶれの立派な口髭(カイゼル髭とは少し違うらしい)をたくわえた紳士━━と、いずれも日本人キャラになっており、それぞれを福井、森谷、幸田、大西が見事に決めている。
就中、お公家様に設定されたオルロフスキー公爵は傑作中の傑作で、これを歌い演じた藤木大地の超絶的な怪演は、まさに舞台をさらった感があろう。なお山形出身の佐藤寛子(イーダ)が東北弁をちらりと出していたが、山形公演ではこれが活用されるのかもしれない。
今回は、桂米團治が狂言回しのような形で上手側に位置し、筋書を語る。彼はクラシック音楽に精通し、オペラと上方落語とを合体させた「おぺらくご」というジャンルを確立させている、とプロフィールに載っていた。
冒頭では、オケ・ピットにいる三味線とともに登場する。当然、牢番フロッシュは彼の役割だ。ただし、長い独り芝居はやらなかった。講釈師のように机をたたきながらストーリーを紹介する個所もあるが、時に少し長すぎる感が無きにしも非ず。関西では受けるだろうが、東京や山形ではどうかしらん? 観客の反応も楽しみだ。
それにまた、今日の観客は彼の話に笑いや拍手などで闊達に応じ、第3幕では彼の煽りに応じて「カエルの歌」の替え歌(これは些か趣味が悪い)を一緒に歌う人も大勢いたが、これが関西のノリというものだろう。東京ではどうかな? いずれにせよこのテは、かつて桂ざこばが舞台を切り回した「メリー・ウィドウ」(☞2008年6月23日の項)を思い出させる。
「鹿鳴館」での合唱団員は、「慣れない洋服姿」を皮肉る意味か、黒子のような服装で、洋服をデザインした横断幕で首から下を覆うという姿で並んでいたが、これはなかなか気の利いたアイディアだろう。この黒子は、舞台転換の際に小道具を運んで大活躍、実に要領がいい。それに面白かったのは「字幕」のスクリーンにおけるさまざまな趣向。これは傑作だ。
音楽面ではまず第一に、阪哲朗が日本センチュリー響を巧く鳴らし、特に序曲では、彼得意の甘い色気のあるウィーン情緒を聴かせることに成功していた、と言えるだろう。また歌手陣も揃っていて、とりわけ森谷真理と幸田浩子が聴かせ場をつくっていた。
総じて、読み替えとしてもかなり細かいところまで手を尽くしたプロダクションで、私は大筋では気に入ったのだが、東京ではどうせまた様式的にどうの、落語はどうの、とかいろいろ批評するマジメな人もいるんじゃなかろうか。
全国共同制作オペラ、J・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」が上演された。阪哲朗指揮、野村萬斎演出で、歌唱はドイツ語、セリフは日本語(台本は野村萬斎による)という形である。
今日の出演は以下の通り━━福井敬(アイゼンシュタイン)、森谷真理(妻ロザリンデ)、幸田浩子(女中アデーレ)、大西宇宙(ファルケ博士)、山下浩司(刑務所長フランク)、与儀巧(歌手アルフレード)、藤木大地(オルロフスキー公爵)、晴雅彦(弁護士ブリント)、佐藤寛子(イーダ)、桂米團治(フロッシュ、狂言回し)。日本センチュリー交響楽団とびわ湖ホール声楽アンサンブル。
かなり奇抜な趣向を凝らした舞台だ。このプロダクションは、今月25日に東京、12月17日に山形でも上演されるので、ネタバレを避ける意味で詳細を記すのは控えるが、演出家のノートによれば「日本人が演じてもおかしくない自然なシチュエーションという発想」に基づく舞台だという。従って今回の情景は、第1幕が日本橋界隈の質屋の茶の間、第2幕が鹿鳴館、第3幕が牢屋というわけ。
アイゼンシュタインは和服姿の質屋の主人、ロザリンデは逸品の着物を召した奥様、アデーレは可愛い働き者の女中、ファルケ博士は西洋かぶれの立派な口髭(カイゼル髭とは少し違うらしい)をたくわえた紳士━━と、いずれも日本人キャラになっており、それぞれを福井、森谷、幸田、大西が見事に決めている。
就中、お公家様に設定されたオルロフスキー公爵は傑作中の傑作で、これを歌い演じた藤木大地の超絶的な怪演は、まさに舞台をさらった感があろう。なお山形出身の佐藤寛子(イーダ)が東北弁をちらりと出していたが、山形公演ではこれが活用されるのかもしれない。
今回は、桂米團治が狂言回しのような形で上手側に位置し、筋書を語る。彼はクラシック音楽に精通し、オペラと上方落語とを合体させた「おぺらくご」というジャンルを確立させている、とプロフィールに載っていた。
冒頭では、オケ・ピットにいる三味線とともに登場する。当然、牢番フロッシュは彼の役割だ。ただし、長い独り芝居はやらなかった。講釈師のように机をたたきながらストーリーを紹介する個所もあるが、時に少し長すぎる感が無きにしも非ず。関西では受けるだろうが、東京や山形ではどうかしらん? 観客の反応も楽しみだ。
それにまた、今日の観客は彼の話に笑いや拍手などで闊達に応じ、第3幕では彼の煽りに応じて「カエルの歌」の替え歌(これは些か趣味が悪い)を一緒に歌う人も大勢いたが、これが関西のノリというものだろう。東京ではどうかな? いずれにせよこのテは、かつて桂ざこばが舞台を切り回した「メリー・ウィドウ」(☞2008年6月23日の項)を思い出させる。
「鹿鳴館」での合唱団員は、「慣れない洋服姿」を皮肉る意味か、黒子のような服装で、洋服をデザインした横断幕で首から下を覆うという姿で並んでいたが、これはなかなか気の利いたアイディアだろう。この黒子は、舞台転換の際に小道具を運んで大活躍、実に要領がいい。それに面白かったのは「字幕」のスクリーンにおけるさまざまな趣向。これは傑作だ。
音楽面ではまず第一に、阪哲朗が日本センチュリー響を巧く鳴らし、特に序曲では、彼得意の甘い色気のあるウィーン情緒を聴かせることに成功していた、と言えるだろう。また歌手陣も揃っていて、とりわけ森谷真理と幸田浩子が聴かせ場をつくっていた。
総じて、読み替えとしてもかなり細かいところまで手を尽くしたプロダクションで、私は大筋では気に入ったのだが、東京ではどうせまた様式的にどうの、落語はどうの、とかいろいろ批評するマジメな人もいるんじゃなかろうか。