2024-03

2009・7・6(月) エクサン・プロヴァンス音楽祭 旅行日記第2日
ワーグナー 「神々の黄昏」

  エクサン・プロヴァンス大劇場

 午後4時40分、大劇場へ向かう。目も眩むばかりの暑さと日差しである。

 サイモン・ラトルがザルツブルク・イースター音楽祭およびエクサン・プロヴァンス音楽祭でプロデュースして来た「ニーベルングの指環」も、ついに最終作を迎えた。「神々の黄昏」はさる3日にプレミエされ、この音楽祭では4回上演されるが、今日はその2回目である。

 これまでの3作に示されたステファーヌ・ブラウンシュヴァイクの演出が、「指環」としては何ともアイディア不足で閃きに乏しいものゆえに、興味は当然ラトルとベルリン・フィルの音楽に向く。
 今回も、実に圧倒的な演奏が行われた。K01という、かなりピットに近い中央の席で聴いたためもあろうが、各パートの細部における明晰さは過去3作に変らず、全体の響きも作品の性格に応じていよいよ豪壮重厚、かつ巨大なスケール感を増した。

 オケ・ピットから出て来る音でありながら、空間にたっぷりと拡がる豊麗さを備えているところが驚異的である。「葬送行進曲」での巨巌のごとき力感も凄いし、第3幕第1場で波打つライン河を描く弦楽器のうねりも、これまで聴いたことがないほどの見事さであった。
 これだけ瑞々しくふくらみのある美しいサウンドは、オケ・ピットから噴出するものとしては、おそらく世界に3つとないのではないか(私の経験の範囲では、もう一つはドレスデンの歌劇場で聴くオーケストラの音色である)。

 なおこれは休憩時間に知人から聞いた話だが、樫本大進がすでに第1ヴァイオリンのトップサイドに座っていたとのことだ。また、舞台裏で角笛のホルンを吹いていたのはバボラークかドールか知らないけれど、おそろしく上手い。

 ラトルの指揮における、テキストと音楽の見事な一致――そのニュアンスの細やかさには、既に「ワルキューレ」の時から感服させられていたことだが、もちろんこの「神々の黄昏」でも充分に発揮されている。
 ただし、そろそろ気になり始めたのは、彼がハイドンのオラトリオなどの演奏でよく使う、登場人物が「思索にふける場面」や、音楽の弱音の「矯め」の個所で極端にテンポを落とす癖が、ワーグナーの演奏にも際しても現われて来ていることだ。

 それはワーグナーの音楽に極めて微細な表情の変化をもたらす解釈になり、面白いといえば面白いところもある反面、大河のごとき音楽の滔々たる流れがしばしば途中で堰き止められ、楽曲全体のバランスを崩してしまう結果を生むことにもなるのである。
 もっとも、ラトルの場合は、その抑制したテンポが緊迫感を失わぬ域に達している(フルトヴェングラーの域には遠いけれども)ことは事実であり、作品を長すぎると思わせるような危険性を感じさせないのが幸いだ。

 ブラウンシュヴァイクの演出は、「ラインの黄金」以来、平々凡々な舞台が続いて腹の立つことばかりだったが、この「神々の黄昏」に至っては、何かもう演出家としての意欲を失っているのではないかと感じられるくらいである。
 舞台装置がセミ・ステージと言ってもいいほど著しく簡素化されていることはいいとしても、登場人物の演技にほとんど表情が与えられていないのが情けない。特にギビフング一族の群集(ベルリン放送合唱団)の動きの所在無さと来たら――。
 第2幕第1場の夜明けの場にしても、背景のスクリーンにせっかく暁の赤い光が拡がり始めたと思う間もなくそれが消えて暗くなり、その闇に紛れてアルベリヒが退場し、そのあと白色の照明が点いて(朝になり)ジークフリートが下手からスタスタと現われる――何とも味気ない、詩情のない演出である。

 全曲大詰めの場面は以下の通り。
 ジークフリートの遺体が置かれている山台の後方に階段が出現し(「ワルキューレ」第3幕でヴァルハルへの道として使われた階段だ)、そこに尾羽打ち枯らした姿の貧弱なヴォータン(もちろんヴィラード・ホワイトではない)が現われ、為す所なく立ったままブリュンヒルデを眺めている。その階段に炎の映像が単調に映写され、ジークフリートとブリュンヒルデは寄り添って寝たままセリで下がる。ラインの乙女たちが指環を掲げて奈落から現われ、再びそこに姿を消す。ハーゲンが「しばらくして」口惜しそうにあとを追う。炎の映像が投影されている階段にはヴォータンが座り、その前に幕が下りる。明るく揺れる光に満たされた長方形の奈落の穴の周辺をギビフング一族の群集が取り囲み、何か呆然とした表情で立ち尽くす。
 ――緊迫感も何もない。それにいずれも、どこかいろいろな「指環」の演出で、一度も二度も見たような光景ばかりではないか?

 かような演出では、歌手たちも曖昧な演技を繰り返すしかなかろう。
 ジークフリートは、前作と同じベン・ヘップナー。声は残念ながら昔の勢いはなく、演技といえるほどのものもないが、野暮ったい青年という役柄には徹底しているようだ。
 ブリュンヒルデも前作と同様、カタリーナ・ダライマン。やや線が細いのが気になるけれど、ラトル的ワーグナーにはある意味で合っているだろう。欲を言えば、「ワルキューレ」で同じ役を歌ったエヴァ・ヨハンソンと今回のそれとが逆だったらと思わぬこともなかった。

 グンターのゲルト・グロコウスキ、グートルーネのエンマ・フェッター、アルベリヒのデイル・デュージングら、演技・歌唱とも可もなく不可もなしといったところ。
 ヴァルトラウテにはアンネ・ソフィー・フォン・オッターが出演、ダライマンを遥かに凌ぐ歌唱表現を示したが、この役柄のイメージとしてはやや軽い。これもラトル的ワーグナーの一環といえるのかもしれない。

 これらの歌手陣に対し一人異彩を放っていたのはハーゲン役のミハイル・ペトレンコで、非常に暗く神経質な顔の表情と、時たま見せる屈折したような笑顔の対比も面白く(この人の笑う顔は舞台で初めて見た)、ソファに座って葉巻を吹かしつつ冷然と一同の醜態ぶりを眺める仕種も光っていた。演技らしい演技を見せていたのは、彼だけである。
 彼の声質は比較的軽い方なので、往年のゴットロープ・フリックやヨーゼフ・グラインドル、新しくはジョン・トムリンソンといった歌手たちのような重厚な暗さと凄みには欠けるけれど、これはこれで一つのスタイルであろう。歌手で最も拍手とブラヴォーを大きく受けたのは、彼ペトレンコであった。

 演出にブーイングは全く出ない。ラトルが登場するや、客席は総立ちで手拍子。彼とベルリン・フィルには拍手を贈りたい一方、予想を超えた演出のお粗末さに気抜けして座ったままでいたが、カーテンコールの出演者たちが見えないので渋々立ち上がる。
 開演は5時35分で、40分と35分の休憩を挟み、終演は11時40分。

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