2024-03

ハンス・ホッター ~「トリスタン、逃げなさい!」

 ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」に登場する神々の長ヴォータンは、特に近年の演出では「権力欲に取り憑かれた、やることなすことドジばかりのリーダー」の性格ばかり浮き彫りにされ、何か薄汚い存在に落ちぶれてしまった。
 が、その昔には、まさにワーグナーの音楽に描かれているごとく、「高貴な神」としての偉大さを備えた主人公として描き出されていたのである。

 それを演じ歌った代表的な一人が、先頃高齢で世を去った一代の名バス・バリトン、ハンス・ホッターである。長身で、気品と威厳とにあふれた舞台姿、壮大で深みのある歌唱表現は、それ自体が神だ、とまで言われていた。その圧倒的な風格に満ちた彼のヴォータンは、1955年バイロイト・ライヴのCD(テスタメント)で聴くことができる。これはホッターのまさに絶頂期(46歳)における素晴らしい記録である。

 そのホッターの、やや異なる側面を伝える録音がある。
 それは1952年バイロイト・ライヴで、カラヤンの指揮で歌った「トリスタンとイゾルデ」のクルヴェナル(トリスタンの従者)の役なのだ。この脇役で、ホッターが示している滋味豊かな歌唱と役柄表現は、見事の極みである。
 それを象徴する一ヶ所をここで挙げよう。第2幕の中ほど、トリスタンとイゾルデの束の間の愛が絶頂に達しようとするその時、マルケ王一行が突然帰還したのを知ったクルヴェナルが飛び込んで来て叫ぶ一言である。「トリスタン、逃げなさい!」

 普通のクルヴェナル歌いの場合には、ここはせいぜい決然と叫ぶような歌唱にとどまるだろう。だが、ホッターがこの歌詞にこめた解釈は、叫びであるよりも、半ばうめきに近い。逃げなさいと言ったところで、もうすべてが手遅れなのだ。そうした絶望感を一瞬のうちに表現する、卓越した解釈がこれなのである。
 たしかに、ここでのクルヴェナルは、もはや完全に絶望している。彼の主人トリスタンは、国王マルケの留守に、その妻イゾルデと密会していたのだ。その不義は明白であり、身の破滅は避けられぬ。死も免れまい。逃げても、逃げおおせるかどうか。忠実な従者は、それが不可能なことを知っている。にもかかわらず、彼は主人に向かって叫ばなければならない。「Rette dich,Tristan! (逃げなさい、トリスタン!)」
 そうしたさまざまな感情を、ホッターはこの言葉の中に完璧に集約しているのだ。

 ホッターは、のちにデッカ・レーベルに「ワルキューレ」を録音する際、第2幕大詰でフンディングにぶつける侮蔑的な「Geh!」の表現を、6通りもの方法で試しながら研究していた、とプロデューサーのジョン・カルショウは伝えている。おそらく前記の「絶望の一言」も、異なる機会にはまた別の表現で歌ったかもしれない。
 ホッターは、そうした綿密な役柄の掘り下げのもとに心理描写に富む歌唱を聴かせることのできる、偉大な歌手だったのである。

『ArtGaia CLUB MAGAZINE TC』2006年12月号掲載「マエストロへのオマージュ~ハンス・ホッター」より転載

註:1952年バイロイト・ライヴの「トリスタン」はオルフェオドールから出ている。

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