2010・4・24(土)あらかわバイロイト ワーグナー:「ワルキューレ」
東京・サンパール荒川大ホール 1時
昨年の「パルジファル」(5月15日の項)に続く第2弾。当初予告されていた「トリスタンとイゾルデ」は変更されたわけだが、それはたいした問題ではない。
とにかくこれは、ワーグナーの作品をひたすら愛する人たちが、自分たちの理想や解釈をそれにぶつけ、自分たちなりの方法で作品を上演してみたいという――その熱意だけで行なっているムーヴメントなのである。
しかもその上演水準は、たとえ二期会や新国立劇場のそれには及ばぬとしても、すこぶる歯の強いものといえよう。参加しているのはいずれもプロの音楽家たちだから、内容もしっかりしている。手弁当同様の乏しい制作費にもかかわらず、よくぞここまでの水準に仕上げたものだと、感嘆せずにはいられない。
指揮は昨年と同様、ドイツのベテラン、クリスティアン・ハンマーだ。
どちらかといえば、直截な表現の指揮である――たとえばブリュンヒルデがジークリンデに「いつかこの剣を振るう英雄、その名はジークフリート」と告げる劇的な瞬間にさえ、彼は些かもテンポを調整しようとはしない。しかし、ハンマーはワーグナーに必要な情感はすべて備えており、たとえば「ヴォータンの告別」のさなか、弦楽器群がゆっくりとモティーフを奏するくだりで彼がオーケストラから引き出した悲劇的な感情の濃さは、卓越したものであった。
オーケストラは昨年同様、TIAA(東京国際芸術協会)フィルハーモニー管弦楽団で、フリーの奏者を集めたもの。腕はいい。昨年より1プルト増やして10型にした弦の編成は、予想外に響きが豊かだ。管は、ソロの個所での木管には雑なところもあるが、テュッティで引き延ばす和音は、見事に均衡が保たれている。
配役はトリプル・キャストで、今日は2日目。角田和弘(ジークムント)、山本真由美(ジークリンデ)、矢田部一弘(フンディング)、田辺とおる(ヴォータン)、蔵野蘭子(ブリュンヒルデ)、小畑朱実(フリッカ)他。
この中では、角田と蔵野が歌唱も演技も安定して、群を抜いて映えた。
この公演の中心人物である田辺は、この日はどうも声の調子が思わしくなかったようで、昨年のクリングゾル(別の日にはアムフォルタスも歌ったはず)でのようなドスの利いた声は聴けずに終った。が、公演監督・総責任者としての気苦労は並みのものではなかったであろう。「ヴォータンの告別」あたりでは、万感胸にこもり、感情を抑え切れなかったのかもしれない。
演技は、ワルキューレたちのうち2、3人が例のごとく手を伸ばす類型的な仕種を繰り返していたのを除けば、比較的ドラマトゥルギーを感じさせていた。特に蔵野蘭子の演技表現は細やかで、流石のものがある。
(ちなみに第3日には、大野徹也、羽山弘子、小鉄和広が最初の3役を演じたはずである)。
演出は伊香修吾。シンプルな舞台構成だが、演劇舞台的なまとまりはある。第2幕大詰めでは、ヴォータン自ら手をくだして息子ジークムントを刺殺したり、フンディングが死なずにヴォータンの言葉に従いフリッカに事の経緯を告げるため立ち去ったりする設定など、いくつか捻った新解釈も見られたのが面白い。
もっとも、ヴォータンが激怒してブリュンヒルデを追って一度退場したあと、再び現われてジークムントを抱いて慟哭するというのは、やはり順序が不自然なのではなかろうか。第1幕と第2幕で女の子を登場させ、ジークリンデの深層心理を投影させる手法は、クラウス・グートなども使っていたものだが、ここではどうも全体の流れの中で浮き上がっていたように見え、なくもがなの感。
ともあれこの「あらかわバイロイト」、総じて昨年を凌駕する力作と評したい。5時50分終演。
→併せて「テオリンの目ヂカラ」さんのコメントをお読み下さい。私のよりも詳しい分析です。
昨年の「パルジファル」(5月15日の項)に続く第2弾。当初予告されていた「トリスタンとイゾルデ」は変更されたわけだが、それはたいした問題ではない。
とにかくこれは、ワーグナーの作品をひたすら愛する人たちが、自分たちの理想や解釈をそれにぶつけ、自分たちなりの方法で作品を上演してみたいという――その熱意だけで行なっているムーヴメントなのである。
しかもその上演水準は、たとえ二期会や新国立劇場のそれには及ばぬとしても、すこぶる歯の強いものといえよう。参加しているのはいずれもプロの音楽家たちだから、内容もしっかりしている。手弁当同様の乏しい制作費にもかかわらず、よくぞここまでの水準に仕上げたものだと、感嘆せずにはいられない。
指揮は昨年と同様、ドイツのベテラン、クリスティアン・ハンマーだ。
どちらかといえば、直截な表現の指揮である――たとえばブリュンヒルデがジークリンデに「いつかこの剣を振るう英雄、その名はジークフリート」と告げる劇的な瞬間にさえ、彼は些かもテンポを調整しようとはしない。しかし、ハンマーはワーグナーに必要な情感はすべて備えており、たとえば「ヴォータンの告別」のさなか、弦楽器群がゆっくりとモティーフを奏するくだりで彼がオーケストラから引き出した悲劇的な感情の濃さは、卓越したものであった。
オーケストラは昨年同様、TIAA(東京国際芸術協会)フィルハーモニー管弦楽団で、フリーの奏者を集めたもの。腕はいい。昨年より1プルト増やして10型にした弦の編成は、予想外に響きが豊かだ。管は、ソロの個所での木管には雑なところもあるが、テュッティで引き延ばす和音は、見事に均衡が保たれている。
配役はトリプル・キャストで、今日は2日目。角田和弘(ジークムント)、山本真由美(ジークリンデ)、矢田部一弘(フンディング)、田辺とおる(ヴォータン)、蔵野蘭子(ブリュンヒルデ)、小畑朱実(フリッカ)他。
この中では、角田と蔵野が歌唱も演技も安定して、群を抜いて映えた。
この公演の中心人物である田辺は、この日はどうも声の調子が思わしくなかったようで、昨年のクリングゾル(別の日にはアムフォルタスも歌ったはず)でのようなドスの利いた声は聴けずに終った。が、公演監督・総責任者としての気苦労は並みのものではなかったであろう。「ヴォータンの告別」あたりでは、万感胸にこもり、感情を抑え切れなかったのかもしれない。
演技は、ワルキューレたちのうち2、3人が例のごとく手を伸ばす類型的な仕種を繰り返していたのを除けば、比較的ドラマトゥルギーを感じさせていた。特に蔵野蘭子の演技表現は細やかで、流石のものがある。
(ちなみに第3日には、大野徹也、羽山弘子、小鉄和広が最初の3役を演じたはずである)。
演出は伊香修吾。シンプルな舞台構成だが、演劇舞台的なまとまりはある。第2幕大詰めでは、ヴォータン自ら手をくだして息子ジークムントを刺殺したり、フンディングが死なずにヴォータンの言葉に従いフリッカに事の経緯を告げるため立ち去ったりする設定など、いくつか捻った新解釈も見られたのが面白い。
もっとも、ヴォータンが激怒してブリュンヒルデを追って一度退場したあと、再び現われてジークムントを抱いて慟哭するというのは、やはり順序が不自然なのではなかろうか。第1幕と第2幕で女の子を登場させ、ジークリンデの深層心理を投影させる手法は、クラウス・グートなども使っていたものだが、ここではどうも全体の流れの中で浮き上がっていたように見え、なくもがなの感。
ともあれこの「あらかわバイロイト」、総じて昨年を凌駕する力作と評したい。5時50分終演。
→併せて「テオリンの目ヂカラ」さんのコメントをお読み下さい。私のよりも詳しい分析です。
コメント
あらかわの夢、再び!
ご批評ありがとうございました
24日「ワルキューレ」のジークムント役で出演いたしました角田和弘の、HP管理人でございます。
暖かなご批評をいただき、ありがとうございました。
角田本人からこのサイトを教えられ、お邪魔いたしました。
角田の希望により、角田のブログでも先生の記事をご紹介させていただきたく、引用の形で記事にさせていただきました。
もし、不都合な点がありましたら、コメント欄に記載いただければ幸いです。
よろしくお願い申し上げます。
暖かなご批評をいただき、ありがとうございました。
角田本人からこのサイトを教えられ、お邪魔いたしました。
角田の希望により、角田のブログでも先生の記事をご紹介させていただきたく、引用の形で記事にさせていただきました。
もし、不都合な点がありましたら、コメント欄に記載いただければ幸いです。
よろしくお願い申し上げます。
地方劇場のレベルではないでしょう
オケの編成、ピットの広さの制約があるからなのでしょう、
弦が約半分、それに対して管は(基本的にソロなので)割とフルに近い。
これはドイツの中小の歌劇場で指環をやる場合にはむしろ普通の編成。
つまり、単に編成が小さいということではなくて、むしろ著しい
(不可避となった)特徴は、弦と管の大きなアンバランス。
これで普通に演奏すると、弦が薄く、そのため管(特に金管)が支えを失って、
それ単体で鳴るため、やかましく、とてもガサツで騒々しいだけの
とてもワーグナーとは思えないような聞くに堪えない響きになりがちです。
私もかつてドイツで何度かそうした演奏を聴いてきて幻滅した覚えがあります。
今回のハンマー氏の演奏は意外にも(失礼)、そうした兆候さえなく、
弦の薄さはさすがにどうにもならないものの、金管も決してやかましくなく、
もちろん抑えたしょぼい音ではなく、力強いしまりのある音で、
全体として編成の小ささの割には大きな響きのワーグナーの音を
出していたのには感服しました。
このレベルは決して、二期会や新国に及ばないどころか、
まねのできない響きでしょう。
尚、ミュンヒェン等の大きな歌劇場では弦も比較的大きな編成になるので、
オケのバランスもとれてきますが、そうかと言って金管が十分な音量を出せば
オケの後ろで歌ってる歌手の声を消してしまうためでしょうか、
フルに鳴ってる金管なんてコンサート以外で聴いたことはありません。
今回のあらかわバイロイトの響きは編成は小さくても大きな歌劇場にも迫る
大きなワーグナーの響きを見事に奏でていて、コンサートと違って、
そのオケの後ろで歌う歌手たちも、蔵野氏をはじめとして8人の端役ワルキューレ
にいたるまで、粒ぞろいで(24日)、大きな劇場に出ても恥ずかしくない歌唱でした。
(田辺氏の不調は惜しまれます。)
(以下余談)
先ほど「フルに鳴ってる金管なんてコンサート以外で聴いたことはありません」と
言いましたが、一箇所だけ例外があります。
それは言わずと知れたあの特殊な音響効果のバイロイト祝祭劇場でした。
私はかつてここで聴いた時はじめて、そうそう、これが自分が知ってる
ワーグナーの音だ、と安心して満たされたものです。
でも、近年私はここで極度に抑制された演奏を聴いて、とても締め付けられる思いで、窮屈で辟易した覚えがあります。
それが東条さん解説のFM放送では解説どおりの素晴らしい演奏に本当に聴こえ、
生の演奏の印象とのギャップに困惑したものです。
でも私はまたあの演奏を聴きたいとは思わないですね。
あらかわバイロイトと違って。
(以上、ご参考まで。)
弦が約半分、それに対して管は(基本的にソロなので)割とフルに近い。
これはドイツの中小の歌劇場で指環をやる場合にはむしろ普通の編成。
つまり、単に編成が小さいということではなくて、むしろ著しい
(不可避となった)特徴は、弦と管の大きなアンバランス。
これで普通に演奏すると、弦が薄く、そのため管(特に金管)が支えを失って、
それ単体で鳴るため、やかましく、とてもガサツで騒々しいだけの
とてもワーグナーとは思えないような聞くに堪えない響きになりがちです。
私もかつてドイツで何度かそうした演奏を聴いてきて幻滅した覚えがあります。
今回のハンマー氏の演奏は意外にも(失礼)、そうした兆候さえなく、
弦の薄さはさすがにどうにもならないものの、金管も決してやかましくなく、
もちろん抑えたしょぼい音ではなく、力強いしまりのある音で、
全体として編成の小ささの割には大きな響きのワーグナーの音を
出していたのには感服しました。
このレベルは決して、二期会や新国に及ばないどころか、
まねのできない響きでしょう。
尚、ミュンヒェン等の大きな歌劇場では弦も比較的大きな編成になるので、
オケのバランスもとれてきますが、そうかと言って金管が十分な音量を出せば
オケの後ろで歌ってる歌手の声を消してしまうためでしょうか、
フルに鳴ってる金管なんてコンサート以外で聴いたことはありません。
今回のあらかわバイロイトの響きは編成は小さくても大きな歌劇場にも迫る
大きなワーグナーの響きを見事に奏でていて、コンサートと違って、
そのオケの後ろで歌う歌手たちも、蔵野氏をはじめとして8人の端役ワルキューレ
にいたるまで、粒ぞろいで(24日)、大きな劇場に出ても恥ずかしくない歌唱でした。
(田辺氏の不調は惜しまれます。)
(以下余談)
先ほど「フルに鳴ってる金管なんてコンサート以外で聴いたことはありません」と
言いましたが、一箇所だけ例外があります。
それは言わずと知れたあの特殊な音響効果のバイロイト祝祭劇場でした。
私はかつてここで聴いた時はじめて、そうそう、これが自分が知ってる
ワーグナーの音だ、と安心して満たされたものです。
でも、近年私はここで極度に抑制された演奏を聴いて、とても締め付けられる思いで、窮屈で辟易した覚えがあります。
それが東条さん解説のFM放送では解説どおりの素晴らしい演奏に本当に聴こえ、
生の演奏の印象とのギャップに困惑したものです。
でも私はまたあの演奏を聴きたいとは思わないですね。
あらかわバイロイトと違って。
(以上、ご参考まで。)
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あらかわバイロイト「ワルキューレ」は、日本を代表する歌手達のワーグナー上演にかける熱い情熱に支えられて成り立ったプロジェクト。ほとんど手弁当で経済的には極めて厳しかったと思いますが、実現自体が無謀と哄笑された企画を、音楽的にも充分満足いく水準で達成させた意欲にあらためて感動を受ける共に、われわれ観客としても来年以降の存続に向け、微力ながらなにか協力できればとの思いを強くしました。
音楽的成功の立役者は指揮のC.ハンマーとの東条先生のご指摘、全く同感です。小規模なオケ編成に合わせた独自の楽譜編集も行われていたようで、ドイツの地方劇場の劇場インテンダントの底力を見せられました。
歌手陣では、ブリュンヒルデの蔵野蘭子氏が、声質を生かし充分コントロールされた重く粘らないレガートな歌唱で、ブリュンヒルデの娘時代の揺れる心理状態を適格に表現、加えて自身が歌わない場面でも相手の歌詞に敏感に反応する細かい表情・演技が、説得力のあるドラマを作り出し聴衆を引き込んだのではないでしょうか?バイロイトデビューの頃のI.ヘルリツイスにも通じるものを感じました。日本人版「目ヂカラ」女の登場ですね。
また、ジークムントの角田和弘氏も、最近の外人歌手でもめったに聞けないような重く張りのある力強い歌唱で、しかもどこか暗い影を感じさせる感情が乗った声はドラマの悲劇性を感じさせるに充分でした。この声には、一瞬荒川ではなくまさにバイロイトいるかのような錯覚を覚えた次第。
また、田辺とおる氏の独特のオーラと存在感のある演技はまさにヴォータンそのもので、声の不調を押して主催の意地で最後まで踏ん張る古武士のような姿に泣けました。どこかの首相を筆頭に責任ちゃぶ台返しが横行する昨今、新鮮な感動を受けました。音楽は技術だけでなく気迫や熱意で琴線に訴える芸術と再認識した次第。
翌日の公演でも、今度は公演監督として、開演前のライトモチーフのファンファーレを客席内で演じさせるとか、カーテンコールでオケを舞台に上げるとか、観客の興味と演奏者のモチベーションを盛り上げようとの試みを指示する姿を見かけ、頭が下がる思いでした。
東条先生ご指摘の通り、演出も厳しい「仕分け」の中、工事現場風の足場をうまく組み合わせた動きのある舞台と、暗い照明を生かしてエッジの効いた演劇的空間を作り出しており、観客の集中力・想像力を喚起させるに十分なものでした。殊に、ドラマ的には重要だがともすれば眠くなる2幕の3つの対話場面では、歌っている方を暗転させ、聞いている相手役にスポットを当て台詞に反応する演技をさせた演出が、観客に歌われている言葉の意味への集中力を喚起させたのが見事でした。
公演はいずれもほぼ大入りでしたが、出演者のノルマ付き合いでチケット入手したであろう若い世代の聴衆が、狭いロビーで「ワルキューレって、けっこうイケてるね」なんて楽しげな会話をする姿も多く見かけられました。重症ワグネリアンの崇める神棚に奉るのではなく、ドイツの劇場同様に(頻度・価格両面で)日常的な身近なものとし、ワーグナーの音楽のわくわく・ぞくぞくするような素晴らしさをひとりでも多くの人に知ってもらいたいという主催者の意図が、年を追うごとに実現できつつあるのではないかとの感慨深いものがありました。
オーストリアのWelsワーグナー音楽祭も、20年前に始まった当時は全くメディアでも無視されていたのが、演奏家と観客とが一体になって育て上げ、今ではメジャーな音楽祭になっており、ここ荒川でも同じ夢が実現できるといいですね。http://wagner-festival-wels.net/