2024-03

2010・5・14(金)リヨン日記第2日
 チャイコフスキー:「エフゲニー・オネーギン」
キリル・ペトレンコ指揮、ペーター・シュタイン演出

  国立リヨン歌劇場  7時半

 国立リヨン歌劇場での「プーシキン原作・チャイコフスキー作曲・ペトレンコ指揮・シュタイン演出」のシリーズ、今日は「エフゲニー・オネーギン」。2007年のプロダクションだ。

 「オペラ」でなく「叙情的情景」と名づけられているこの作品――ペトレンコがここの劇場の管弦楽団とともに紡ぎ出す音楽は、すこぶる美しい(昨日は後方の「屋根」にかぶったS列という席だったが、今日は前から5列目のE席だったから、いっそうたっぷりした響きで聴けたこともあろう)。

 しかしこの指揮者は、本当に音楽の「もって行き方」が上手い人だなと感心させられる。実に自然に大きな劇的な起伏をつくるし、オーケストラから表情豊かな音楽を引き出すことにも長けているのだ。全曲大詰場面、千々に乱れるタチヤーナの心を描くように管弦楽は転調に次ぐ転調を重ねるが、ここでの刻々と虹色のように移り変わって行くオーケストラの響きには、息を呑まされた。ベテラン指揮者ならともかく、まだ38歳の若さでありながらこのような大技を駆使できるとは、驚くべきものである。

 歌手陣は、今夜も手堅い。
オネーギンにアレクセイ・マルコフ、詩人レンスキーにエドガラス・モントヴィダス、女地主ラーリナ夫人にマリアンナ・タラーソワ、その娘タチヤーナにオリガ・ミキイテンコ、その妹オリガにエレーナ・マキシモーワ、乳母フィリッピヴナにマルガリータ・ネクラソーワ、グレーミン公爵にミハイル・シェロミアンスキーといったように、主役陣には、レンスキー役以外、すべてロシア系歌手を並べている。
 そして彼らがすべて、ペトレンコの自然な流れの指揮に乗って、楽々と自然に歌っているという感じがするのだ。これなら音楽が生き生きと息づいていて、チャイコフスキーの音楽の美しさを余すところなく感じさせるのも当然だろう。

 題名役を歌ったマルコフは、サンクトペテルブルクの音楽院を出て間もない、マリインスキー劇場のアカデミーのソリストだというから、まだ経験はそれほど多く積んでいないと思われる。清新な感じのする歌手だ。
むしろ感心したのはウクライナ出身のミキイテンコで、「手紙の場」での声の良さとともに、最終場面で心乱れつつオネーギンのプロポーズを断固と拒否するあたりの歌唱と演技の巧さは出色の出来であった。
 リトアニア出身のモントヴィダス(レンスキー)も若いが、これもフレッシュな有望株である。一方、さすがの練達さを示していたのがタラーソワ(ラーリナ夫人)で、彼女もマリインスキーの若い世代の歌手なのだが、昨日に続いて老け役を見事に演じ、歌っていた。

 なお、昨日と同様に感心させられたのがこのリヨン・オペラの合唱団だ。華麗で動きの速いロシアの踊りを見事にこなしながら、同時に歌う。巧いものである。

 ペーター・シュタインの演出は、今回も基本的にト書きどおり。
 第3幕冒頭のポロネーズを、台本どおりに舞踏会場面として設定した演出は、最近ではむしろ珍しい方だろう。着飾った踊り手たちに能面のような無表情さを要求していたのは、あのポクロフスキーも新演出で試みていた「サンクトペテルブルク社交界の虚飾と冷酷さ」を表現するためとも思われる。
 そのあとで社交界の人々がオネーギンについて噂し、非難を囁く場面では、彼らは背後から取り囲むように、じわじわと彼に迫って来る。ちょっとした迫力である。オネーギンは「針のムシロ」という感だが、このあたりは十数年前にザルツブルクで観た「モーゼとアロン」の名舞台を思い出させる。群集を動かすのが巧いシュタインの得意の手法だろう。

 大幅な読み替えをせずに演技を掘り下げるのがシュタインの流儀だが、今夜の上演で何より面白かったのは、やはりクライマックスたるラストシーンである。
 ここでのタチヤーナの演技は、オネーギンへの昔の愛を思い出して動揺しつつも、グレーミン公爵夫人となっている現在の立場を守り、オネーギンの説得を断固として退けるというのが基本の形だが、シュタインはここで彼女から 「この期に及んで何を言うのですか」と怒りを交えながら鋭く、激しく、オネーギンに詰問(彼に指を突きつけさえする!)し、しかも動揺を抑えきれぬ、という解釈を引き出していた。
 この場面でタチヤーナが昂然かつ冷然たる演技と歌唱を繰り広げ、オネーギンを圧倒していたのは前述のとおりである。こういう演出と演技と指揮とでこの場面が描き出されると、このオペラの主人公はやはりオネーギンでなく、むしろタチヤーナであることが実証されるだろう。

 シュタインが基本的に読み替えを行なわないのは前述のとおりだが、彼が唯一この上演で台本にない解釈を引き出したのは、ラストシーンにおいてだ。タチヤーナが姿を消した直後、グレーミン公爵が部屋の外を通りかかる。突き放されたオネーギンが絶望し取り乱して出て行こうとする時、グレーミンが彼の道をふさぎ、正面から対峙するという設定の中に幕が降りる――という手法で、余韻を残す。

 ヴェーゲンバウアーの舞台美術は、前日と同様、極めてシンプルだ。必ずしも抽象的なものではなく、各幕の物語に応じてそれなりに趣向が凝らされている。
 幕ごと2回の休憩に場面転換の時間(結構長い)を含め、終演は11時10分。

 このオペラハウスは、新しくて、いかにもフランスの建物らしく洒落たものだが、ややデザイン先行の傾向があり、薄暗いくせに妙にあちこち眩しくて眼が疲れるところがある。正面入口のアプローチは若者たちのデモンストレーションに絶好の場所となっているらしく、のべつダンスやアクロバットをやっている連中がいる。オペラの客は、出る時も入る時もその間をすり抜けて行くという状態だ。このあたりの若者の騒々しさは日本の比ではなく、深夜になれば奇声をあげて走り回り、ドリンクのコップや食べカスを散らかす。歌劇場前の広場は、何故かそういう品のないグループの溜り場になっているらしい。

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