2024-03

2010・6・10(木)旅行日記第5日 エッセンの「指環」~「ラインの黄金」

 エッセン・アールト音楽劇場  7時30分

 ケルンの「指環」の中休みを利用して、エッセン・オペラの「指環」の一つ、「ラインの黄金」を観に行く。ここの「指環」もいま制作が進行中。かなり話題を呼んでいるプロダクションの由。

 エッセンはケルンからICEで、デュッセルドルフとデュイスブルクを経てほぼ1時間の距離にある――日本に置き換えれば東京と静岡の歌劇場でそれぞれの「指環」を上演している理屈になるわけで、つくづくドイツのオペラの底力の凄さを感じさせる(この2都市の中間にはライン・ドイツオペラもあるし)。

 エッセン・アールト・ムジークテアターは、評判どおりの美しい、清潔な雰囲気の歌劇場だ。エッセン駅近くの公園の一角にあり、広大なホワイエを持つが、客席数そのものはあまり多くなく、このあたりが欧州の歌劇場のコンセプトを物語るだろう。
 今回は5列27番という、前方ほぼ中央の席に座ったが、椅子の良さと広さ、客席の傾斜が大きいことによる舞台の観易さ、音響効果の良さなど、観客の立場から見てもずば抜けたオペラハウスに感じられる。

 「ラインの黄金」は、2008年秋にプレミエされたプロダクション。
 指揮はこの劇場のインテンダントと音楽総監督を兼ねるシュテファン・ショルテス(ハンガリー生れ)。オーケストラはエッセン・フィル。
 ショルテスの指揮は、幕開きから凄まじく速いテンポだ。演奏時間も2時間15分、これは私がこれまで聴いた「ラインの黄金」の中では、空前の最速記録である。
 しかしエッセン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏が立派だし(トランペットだけは少々危なかったが)、ピットの響きと声楽の響きとが驚異的に良いこともあって、音楽は決して単調にならず、瑞々しさも失われていない。むしろ凝縮された痛快な演奏と言うべきか。

 演出はティルマン・クナーベで、やたら騒々しく目まぐるしいが、やたら面白い。
 ユニークな特徴は、第一に、「ラインの黄金」における4つの世界がすべて舞台に設定され――
   神々の贅沢な居間(舞台下手側上層部)、
   巨人族の貧しい住処(上手側上層)、
   ラインの女たちの売春宿(下手側1階)、
   ニーベルング族の貧民窟(上手側1階・半地下)
しかも、それぞれの状況が最初から最後まで、同時進行で描かれることだ。従って、オリジナルの台本で描かれている場面と並行して、「これまで誰も知らなかった話」が、舞台のいろいろな場所で語られるのである。
 たとえばヴォータンとローゲがアルベリヒと応酬している間、巨人族に拉致された女神フライアがどんな目に遭っていたか――は、上手の上の方を見ていれば判明するわけ。

 とりわけ面白いのは、「その後のアルベリヒ」だ。神々に指環と全財産を強奪され、手に重傷を負ったアルベリヒが、尾羽打ち枯らした姿で貧民窟のニーベルハイムに帰り着き、弟ミーメからも嘲笑され虐待され、失意のどん底の日々を送る――という光景が、メインの場面とは別の場所で繰り広げられるのである。傑作中の傑作であろう。
 音楽に耳を固定して、目をあちこち動かすことに慣れていれば、こんな面白い舞台も無かろう。アルフレッド・ペーターの凝りに凝った装置も秀逸だ。

 ユニークな発想の第二は、登場キャラクターの相関図に新解釈を加え、徹底してあざとく描き出したこと。
 エルダと、ヴォータンの生真面目な正妻フリッカ以外は、すべてなんらかの知己関係にあることが、物語冒頭から舞台上で描かれる。ヴォータンは「ラインの女たち」(いわゆるラインの乙女)の誰かとのべつセックスをしている(本当にヴァルキューレの誰か一人くらいは彼女たちの間に出来た子供ではないか、と思わせるほどだ)。
 ラインの女たちも、「娼婦」として全篇にわたり、アルベリヒやらローゲやら、誰彼となく男を引き込んでいる。
 だがこれらはすべて、後にフリッカがヴォータンを非難して言う「あなたは夜となく昼となくうろつきまわっていかがわしいことを」の歌詞や、「あのラインの娘たちは何人もの男を引きずりこんで誘惑して」の歌詞を思えば、決して勝手な読み替えでないことが納得行くだろう。

 しかし、ややこしい突飛な解釈も数多い。ファーゾルトは最初の方で、柄の悪い神々のドンナーとフローに暴行を受け頭に重傷を負い、フライアに助けられて治療を受ける。これがのちのファーゾルトとフライアとの関係の伏線になるわけだ。
 ただしそのドンナーとフローが手のつけられない無頼者で、幕開きから上手側隅でしつこくホモ・セックスとSMプレイに耽っている設定だけは、必然性があるとは思えず、甚だ目障りで不快である。とはいえこのホモ2人が、後にローゲが「女の愛こそがこの世で一番」と語る傍らで馬鹿笑いし、フリッカにたしなめられるくだりなど、読み替えでも論理的には辻褄も合っている。

 演奏がしっかりしているので、こういう騒々しさも、むしろ上演を引き立てる。とはいえ、アルベリヒを捕えたヴォータン一族が、国連旗と星条旗とを並べて裁判の体裁をつくる場面は、笑えるけれども、相当なイヤミだろう。よくもまあ、いろんなことを思いつくものである。

 ヴォータンのアルマス・スピルパ、ローゲのライナー・マリア・レールをはじめ、歌手陣には、私にとってなじみのある名はあまり見当たらないが、大体みんな歌唱も安定しており、なにより芝居が巧い。ラインの女たち3人のプロポーションの良さが、舞台に妖しい華やかさを添える。

 中では、アルベリヒを歌い演じたトマーシュ・コニェチュニイ Tomasz Konieczny という若い(38歳)のバリトンが、圧倒的に見事だった。声は往年の悪役名歌手グスタフ・ナイトリンガーを思わせる強烈さであり、悪役メイクの顔は往年の名画「シャイニング」のジャック・ニコルソンそっくり。したがって、怖い。
 彼がニーベルハイムでヴォータンを威嚇する場面など、決して強がりではなく、この男ならいつか本当に軍勢を率いてヴァルハル城に猛攻をかけ、世界を支配するかもしれない――と(結局そうならないことを既に知っている)観客にさえ信じ込ませてしまうほどの凄まじさなのだ。
 ショルテスが速いテンポで轟々と鳴らすオーケストラが、それに輪をかける。
 演奏と演技によっては、のちに起こりえないストーリーまで観客に想像させることも可能だということの、これは稀有なケースといえよう。
 この場面一つだけでも、わざわざ遠くエッセンまで観に来た甲斐があった、という気がする。

 カーテンコールでは、このコニェチュニイが最後に答礼に現われた。大トリ扱いは、ゲスト歌手に敬意を示しての待遇か? それとも、このドラマの主人公はアルベリヒだということを示すためか? 然り、通常の上演では主人公として目立つヴォータンやローゲの代わりに、この演出と演奏においては、アルベリヒこそが真の主人公になっていたのであった。

 これが伏線となって展開するのなら、エッセンの「指環」は実に面白くなるだろうと思ったが、聞けば、4部作はそれぞれ演出家が異なるシステム(シュトゥットガルトの「指環」と同じ)だそうな。
 「ワルキューレ」と「ジークフリート」も、既にプレミエされている。が、ケルン在住の来住千保美さん(音楽学)の話によれば、「ワルキューレ」の演出はクルップ財閥の歴史とも絡められていて面白いけれど、「ジークフリート」の方はメルヘン・タッチと化してぐっと落ちる由。今年10月にプレミエされるバリー・コスキー演出の「神々の黄昏」が待たれるという。

 終演は9時45分。10時43分のICEに乗ってケルンに引き返す。11時37分ケルン着。駅を出た途端、目の前に聳える大ドームが何となく懐かしく感じられるようになってしまった。

コメント

トマシュ・コニェチュニ

日頃より大変楽しく拝見しております。
さて、トマシュ・コニェチュニは2007年3月のアルミンク指揮/新日本フィル「ローエングリン」でハインリッヒ王を歌っています。その際の印象では、声はベラボウに立派なのだけども怒鳴ればよいというものではない、感じだったのですが、今や立派な歌い手になっているということですね。

びっくり仰天

いつも愛読しています。
このレポートにはびっくり仰天でした! すごい演出ですね。常人の発想をこえたところがあります! 四つのストーリーを作るのですから、それだけ手間ひまもかかるでしょうが‥。お陰さまで私もその場に居合わせたような臨場感をもって読ませていただきました。

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