2024-03

2010・6・16(水)旅行日記最終日  ウィーンの「タンホイザー」プレミエ

  ウィーン国立歌劇場  6時

 ワーグナーの「タンホイザー」、今シーズン注目の新プロダクションのプレミエ。
 クラウス・グートが演出、ウィーン国立歌劇場の次期音楽総監督フランツ・ウェルザー=メストが指揮。

 第1幕後半がホテル・オリエント、第2幕がウィーン国立歌劇場の上階ホワイエ、第3幕が精神病院――という場面設定だとの噂は少し前から聞いていた。その段階で、もう演出内容も見当がつこうというものである。

 タンホイザー(ヨハン・ボータ)は、既に早い時期から精神錯乱に陥っており、彼の妄想の中では、清純な少女エリーザベト(アニア・カンペ)と官能の女性ヴェーヌス(ミヒャエラ・シュスター)が瞬時に入れ替わったり(歌合戦の場)、同時に彼の前に現われていたり(ヴェヌスブルクの場)という具合に、愛する女性2人の存在が終始交錯し、錯綜する。
 タンホイザー自身も、自己の規範や意思とは異なる行動を取る己の分身(ヴェヌスブルクの場面)を目の当たりに見て混乱、やがてそれと一体になる。

 ヘルマン(アイン・アンガー)やヴォルフラム(クリスティアン・ゲアハーアー)ら彼の同僚たちは、第1幕ではホテル・オリエントで女たちと遊びに耽る「普通の男たち」であるにもかかわらず、歌合戦の場では突如、黒服を纏った中世の僧侶たちのような「倫理集団」に変身し、タンホイザーを非難し威嚇する――この場面はすべて情熱と倫理との板挟みの状態にあるタンホイザーの抑圧された心から生まれた幻想だが、周囲から迫り来る黒衣の人物たちが与える不気味な圧迫感は凄まじい。

 第3幕では――ここが最も巧く読み替えられた部分だが――タンホイザーは既に精神病院の患者となっており、その介護に疲れ絶望したエリーザベトは「祈り」のあと、睡眠剤を大量に服用して自殺する。ヴォルフラムの「夕星の歌」は、彼女を悼む挽歌である。
 目覚めたタンホイザーはベッドから起き上がり「ローマ語り」を歌い、彼の狂気はいよいよ激しくなるように見える。だが、彼を必死に気遣う親友ヴォルフラムの「エリーザベト!」の一言が、彼を救い、正気に戻らせた。俺はこんな所にさっきまで寝ていたのか――と、タンホイザーは自分のベッドを見る。人々がエリーザベトの亡骸に花を捧げる合唱のさなか、タンホイザーは贖罪の死に至る。
 ――この場面には解釈の曖昧な要素もあり、特にヴォルフラムが病棟のベッドに入ってしまうところなど、親友タンホイザーに替って狂気に陥り始める彼を示すようにも見える。
 とにかくこの幕では、あの「巡礼の合唱」が、医師や看護婦に付き添われつつ散歩から帰ってきた入院患者たちによって歌われるくらいなのだ。

 こういう読み替え場面は、文章にすると狂気の沙汰に思えるが、実際の舞台を観ていると、きわめて自然に見えるものなのである。「巡礼の合唱」のあとにエリーザベトが「彼は帰って来ない・・・・」と絶望する歌詞なども、「彼の精神」そのものが既に遠い所へ行ってしまったのを意味していることが、実に自然に感じられるのだ。
 このグートの演出は、かなりよく考えられているのは事実だろう。ただ、ハンブルクの「指環」と同様、彼の舞台は、たいてい何かこう、地味で、湧き上がるような個性とか迫力に乏しい傾向があるような気がするのだ。折角の綿密な演出にもかかわらず、「やってくれたわ」というパンチに欠けるきらいがあるのが惜しいところである。

 一方、演奏の方は功罪半々というところだ。
 ウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏は、さすがにプレミエとなると昨夜のルーティン公演とはえらい違いで、重厚で緻密で轟くような響きを繰り広げていた。ティンパニがトロかったり、木管が1小節早く入るなどということもあったけれど、全体を傷つけるようなものでもない。
 ウェルザー=メストは例の如く情感のあまりない音楽づくりで、しかも例のごとく立ち上がりが悪いが、ここぞという個所では猛烈な勢いで盛り上げるという「持って行き方」の巧さがある。序曲のコーダや、全曲の大詰め個所など、あるいは第3幕でタンホイザーの狂気が高まって行く個所などでのドラマティックな迫力は特筆すべきものがあった。

 だが――これは必ずしも彼だけの責任ではないのだろうが――第2幕後半での、大カットはいただけない。あのピウ・モッソからの素晴しいアンサンブル120小節近くをバッサリとカットし、一気にピウ・モトへ飛んでしまった演奏には、またもやこのテかと頭に血が上り、拍手をする気も起こらなくなったほどである(以前、新国立劇場のプロダクションが「ウィーン版」と称して行なった時と似たカットだ)。
 先日観たラトル指揮の「トリスタンとイゾルデ」第2幕でも、いまどきこんな、と思わせるカットを行なっていたっけ。こういうところに、この名門歌劇場の旧い体質が未だに残っているのかもしれない。
 そのくせ、第2幕最初のエリーザベトとタンホイザーの二重唱は、ヴォルフラムの短い独白も含めてノーカットで演奏していたのだから、いくらスコアに複雑な問題が残っているこの作品とはいえ、コンセプトがチグハグではなかろうか。

 良かったのは、歌手陣であった。
 とりわけ、この日がウィーン国立歌劇場へのデビューだというゲアハーアー(この表記が一番モトに近いというアチラ在住の識者の意見だ)の巧さ。
 私は、オペラでの彼を観たのは初めてだ。第1幕では少々力み返っていた雰囲気もあったが、第3幕ではあのフィッシャーディースカウばりの、非常にニュアンスの細かい、心理表現に富んだ、しかも朗々たるダイナミックな発声でヴォルフラムの複雑な性格を描き出した。しかも、演技も意外に上手い(失礼)のである。
 リート歌手として既に名を為しているゲアハーアーだが、オペラにも素晴しい力を発揮する人であることがここでも証明されているだろう。彼への拍手とブラヴォーは、劇場をゆるがせるほど盛んだった。

 もう一人、アニア・カンペも(意外にも)この日が同歌劇場デビューだったという。こちらはエリーザベトとして、初日はまず無難な出来というところか。客席の拍手の反応も、まあそのへんのところ。ヴェーヌスを歌ったミヒャエラ・シュスターの方にやや拍手が多く集まったが、今回はエリーザベトとヴェーヌスは役柄からして瓜二つの姿にしてあるから、ちょっと混同したお客さんもいるかもしれない。

 題名役のヨハン・ボータは、例の巨躯と大音声を駆使して活躍。彼のこの役は、歌唱のスケールも大きく、予想していたよりも遥かに良かったと思う。もう少し演技が上手ければいいのだが、この難しい役を完璧にこなす人はなかなかいないだろう。
 「ヴェヌスブルクの場」では彼の影武者が登場するが、よくもまあそっくりの体型と風貌の男を選んだものである。しかし、「鏡の中の自分」のような形で互いに芝居をするからには、もう少し動きのタイミングをぴったり合わせるようにしたら如何なものか。その昔のドリフターズの鏡のギャグのビデオでも見せてやりたいくらいだ。

 最後のカーテンコールで登場したクラウス・グートら演出スタッフには、主として立見席から、適当量(?)のブーイングが飛んだ。してやったりの表情で、ニヤリと笑うグート。

 10時15分終演。これで今回の日程すべてを終了。明日、帰国の途に着く。

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