2023・10・15(日)びわ湖ホール モーツァルト:「フィガロの結婚」
滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 2時
「オペラへの招待」シリーズのひとつ。ダブルキャストによる全6回公演の、今日は第5日。新芸術監督の阪哲朗が指揮、松本重孝が演出、乃村健一が舞台美術を担当している。
今日の配役と演奏は、平野和(フィガロ)、山岸裕梨(スザンナ)、市川敏雄(アルマヴィーヴァ伯爵)、船越亜弥(伯爵夫人)、山内由香(ケルビーノ)、林隆史(ドン・バルトロ)、増田早織(マルチェリーナ)、有本康人(ドン・バジリオ)、佐々木真衣(バルバリーナ)、奥本凱哉(ドン・クルツィオ)、西田昂平(アントニオ)。びわ湖ホール声楽アンサンブル、日本センチュリー交響楽団。
重厚なオペラや重厚な交響曲に浸り続けたあとに聴くモーツァルトの音楽が、なんと伸びやかで明快で美しいこと。こういう解放感に浸れるのも、演奏会通いの醍醐味というものだろう。
もちろんこれは、阪哲朗の見事な指揮のせいもある。今日は特に、モーツァルトの円熟期の作品の特徴のひとつでもある、管楽器群の和声の美しさが浮き彫りにされた演奏が聴かれ、このオペラの魅力的な管弦楽法が十全に再現されていた。漸く日本でその真価を発揮しはじめた阪哲朗の指揮の良さが、今日も充分に示されていたと言ってもいいだろう。
序曲や第1幕ではオーケストラが何故か粗く、また声楽陣の方も重唱やアンサンブルの調和が今一つ、という印象があったが、休憩を挟んで第3幕・第4幕に至るや、全てが一変した。
たとえば第4幕のフィナーレ、ケルビーノとフィガロを追い払った伯爵がおもむろにスザンナ(実は伯爵夫人の変装)を口説きにかかる場面、オーケストラが突然Con un poco piu di motoとなり、第1ヴァイオリンが軽快で幅広い旋律を奏し、第2ヴァイオリンがその下で柔らかく波打つ個所での表情の豊かさ。あるいはそのあと、全員が「お許しを!」と繰り返し、伯爵が「ならぬ!」と突っぱねる個所での、ヴァイオリン群の表情に富んだ起伏。
こういうところで聴かせた阪哲朗の指揮と日本センチュリー響のふくよかな演奏は、実に魅力的なものだった。
歌手陣では、やはりフィガロ役の平野和の闊達で爽快な歌唱と演技が素晴らしい。彼のオペラは、今年は「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の夜警(☞2023年3月2日、5日)と、「ドン・ジョヴァンニ」のレポレッロ(☞2023年7月17日)を聴いて来たが、その表現力の幅広さには感心する。
また、伯爵夫人役の船越亜弥は、第2幕のカヴァティーナよりも、後半で調子を上げ、第3幕のアリアで本領を発揮していた。その他の人びとも、みんなそれぞれに安定していたが、ただ、重唱やアンサンブルの部分ではもう一つ緊密さが欲しかったところだ。
松本重孝の演出も、演技は結構微細にわたっていて、芝居としての面白さは出ていただろう。権力を振り回す支配階級と市民との激突━━といったような演出路線ではないけれども、今回のような上演の場合は、これで充分だ。
演奏が大詰めのAllegro assaiに入って盛り上がりはじめた時、音楽に合わせて手拍子を取りはじめた客がいたのには驚いた。幸い、あの日生劇場の「フィデリオ」(☞2013年11月24日)の時の手拍子オヤジと違い、リズムはある程度までは合っていたけれども‥‥。
「オペラへの招待」シリーズのひとつ。ダブルキャストによる全6回公演の、今日は第5日。新芸術監督の阪哲朗が指揮、松本重孝が演出、乃村健一が舞台美術を担当している。
今日の配役と演奏は、平野和(フィガロ)、山岸裕梨(スザンナ)、市川敏雄(アルマヴィーヴァ伯爵)、船越亜弥(伯爵夫人)、山内由香(ケルビーノ)、林隆史(ドン・バルトロ)、増田早織(マルチェリーナ)、有本康人(ドン・バジリオ)、佐々木真衣(バルバリーナ)、奥本凱哉(ドン・クルツィオ)、西田昂平(アントニオ)。びわ湖ホール声楽アンサンブル、日本センチュリー交響楽団。
重厚なオペラや重厚な交響曲に浸り続けたあとに聴くモーツァルトの音楽が、なんと伸びやかで明快で美しいこと。こういう解放感に浸れるのも、演奏会通いの醍醐味というものだろう。
もちろんこれは、阪哲朗の見事な指揮のせいもある。今日は特に、モーツァルトの円熟期の作品の特徴のひとつでもある、管楽器群の和声の美しさが浮き彫りにされた演奏が聴かれ、このオペラの魅力的な管弦楽法が十全に再現されていた。漸く日本でその真価を発揮しはじめた阪哲朗の指揮の良さが、今日も充分に示されていたと言ってもいいだろう。
序曲や第1幕ではオーケストラが何故か粗く、また声楽陣の方も重唱やアンサンブルの調和が今一つ、という印象があったが、休憩を挟んで第3幕・第4幕に至るや、全てが一変した。
たとえば第4幕のフィナーレ、ケルビーノとフィガロを追い払った伯爵がおもむろにスザンナ(実は伯爵夫人の変装)を口説きにかかる場面、オーケストラが突然Con un poco piu di motoとなり、第1ヴァイオリンが軽快で幅広い旋律を奏し、第2ヴァイオリンがその下で柔らかく波打つ個所での表情の豊かさ。あるいはそのあと、全員が「お許しを!」と繰り返し、伯爵が「ならぬ!」と突っぱねる個所での、ヴァイオリン群の表情に富んだ起伏。
こういうところで聴かせた阪哲朗の指揮と日本センチュリー響のふくよかな演奏は、実に魅力的なものだった。
歌手陣では、やはりフィガロ役の平野和の闊達で爽快な歌唱と演技が素晴らしい。彼のオペラは、今年は「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の夜警(☞2023年3月2日、5日)と、「ドン・ジョヴァンニ」のレポレッロ(☞2023年7月17日)を聴いて来たが、その表現力の幅広さには感心する。
また、伯爵夫人役の船越亜弥は、第2幕のカヴァティーナよりも、後半で調子を上げ、第3幕のアリアで本領を発揮していた。その他の人びとも、みんなそれぞれに安定していたが、ただ、重唱やアンサンブルの部分ではもう一つ緊密さが欲しかったところだ。
松本重孝の演出も、演技は結構微細にわたっていて、芝居としての面白さは出ていただろう。権力を振り回す支配階級と市民との激突━━といったような演出路線ではないけれども、今回のような上演の場合は、これで充分だ。
演奏が大詰めのAllegro assaiに入って盛り上がりはじめた時、音楽に合わせて手拍子を取りはじめた客がいたのには驚いた。幸い、あの日生劇場の「フィデリオ」(☞2013年11月24日)の時の手拍子オヤジと違い、リズムはある程度までは合っていたけれども‥‥。
2023・10・14(土)カーチュン・ウォン指揮日本フィル 10月東京定期
サントリーホール 2時
この秋から首席指揮者となったカーチュン・ウォンの指揮で、マーラーの「交響曲第3番」が演奏された。
協演の合唱はharmonia ensembleと東京少年少女合唱隊、メゾ・ソプラノのソロは山下牧子、コンサートマスターは田野倉雅秋。なお、合唱はP席に、またメゾ・ソプラノのソリストはオーケストラの中、コントラバス群の前のあたりに位置していた。
これは日本フィル渾身の力演という感。新しいシェフとの門出に湧き立つ楽員たちの気魄が噴出した演奏と言ってもいいだろう。金管群の咆哮は強靭だし、直線的で切れのいい音楽づくりは明快そのもの、各パートのソロも冴え、ダイナミズムと力感の点でも特筆すべきものがあった。終楽章の大詰めでは、ステージ全体に拡がる形で配置された7対のシンバル(ベルリオーズみたいだ)が輝かしい光を添えたが、これも今日の演奏の特徴を象徴するほんの一例に過ぎない。
終演後のロビーやエントランスは、凄かった、とにかく凄かった、と絶賛の声であふれていた。中には、今年の日本のオーケストラ演奏会のベスト1に推したいくらいだ、という同業者もいたほどである。
とはいうものの、私には、大方のように手放しで絶賛できる状態には少々距離がある。作品の解釈という点で、些かの疑問が残るのだ。それは、あまりに激烈ではなかったか?
私は今まで、この「3番」を、「第4交響曲」に先立つパストラル(田園)的な作品として意識していた。曲中に聴かれる弦の豊麗で優しい響き、室内楽的で万華鏡のような微細な各楽器の交錯の妙などは、慈しむように緻密に演奏されなければ聞き取れぬものではなかろうか。
それにマーラーは、最初はこの交響曲を「牧神」と呼ぶことを考えていたというし、今も残る各楽章のイメージタイトルも、夏が来る━━牧場の花が語ること━━森の動物が語ること━━夜が語ること━━朝の鐘が語ること━━愛が語ること、となっているのだから、この交響曲は、雄渾壮大ではあるものの、やはり一種のパストラル的な、優しさ、愛らしさ、伸びやかさといったものを大きな特徴としていることが判るだろう。
もちろんウォンも、その点については明確に認識していることをインタヴュー等で語ってはいるけれども、しかし実際の演奏を聴くと、そういう面よりも、この曲にむしろあの激しい曲想を持つ「第5交響曲」への先駆け━━とでもいうような特質を見出し、それに基づいて構築しているかのようにも感じられるのである。
百歩譲って、ウォンが今日の演奏を「愛」と考えているなら、それはそれで一つの考え方だろう。現代の若い世代の東洋人指揮者が、マーラーの交響曲における「愛」の概念をこのような形で具象化しているとすれば、それも興味深いことではある。
この秋から首席指揮者となったカーチュン・ウォンの指揮で、マーラーの「交響曲第3番」が演奏された。
協演の合唱はharmonia ensembleと東京少年少女合唱隊、メゾ・ソプラノのソロは山下牧子、コンサートマスターは田野倉雅秋。なお、合唱はP席に、またメゾ・ソプラノのソリストはオーケストラの中、コントラバス群の前のあたりに位置していた。
これは日本フィル渾身の力演という感。新しいシェフとの門出に湧き立つ楽員たちの気魄が噴出した演奏と言ってもいいだろう。金管群の咆哮は強靭だし、直線的で切れのいい音楽づくりは明快そのもの、各パートのソロも冴え、ダイナミズムと力感の点でも特筆すべきものがあった。終楽章の大詰めでは、ステージ全体に拡がる形で配置された7対のシンバル(ベルリオーズみたいだ)が輝かしい光を添えたが、これも今日の演奏の特徴を象徴するほんの一例に過ぎない。
終演後のロビーやエントランスは、凄かった、とにかく凄かった、と絶賛の声であふれていた。中には、今年の日本のオーケストラ演奏会のベスト1に推したいくらいだ、という同業者もいたほどである。
とはいうものの、私には、大方のように手放しで絶賛できる状態には少々距離がある。作品の解釈という点で、些かの疑問が残るのだ。それは、あまりに激烈ではなかったか?
私は今まで、この「3番」を、「第4交響曲」に先立つパストラル(田園)的な作品として意識していた。曲中に聴かれる弦の豊麗で優しい響き、室内楽的で万華鏡のような微細な各楽器の交錯の妙などは、慈しむように緻密に演奏されなければ聞き取れぬものではなかろうか。
それにマーラーは、最初はこの交響曲を「牧神」と呼ぶことを考えていたというし、今も残る各楽章のイメージタイトルも、夏が来る━━牧場の花が語ること━━森の動物が語ること━━夜が語ること━━朝の鐘が語ること━━愛が語ること、となっているのだから、この交響曲は、雄渾壮大ではあるものの、やはり一種のパストラル的な、優しさ、愛らしさ、伸びやかさといったものを大きな特徴としていることが判るだろう。
もちろんウォンも、その点については明確に認識していることをインタヴュー等で語ってはいるけれども、しかし実際の演奏を聴くと、そういう面よりも、この曲にむしろあの激しい曲想を持つ「第5交響曲」への先駆け━━とでもいうような特質を見出し、それに基づいて構築しているかのようにも感じられるのである。
百歩譲って、ウォンが今日の演奏を「愛」と考えているなら、それはそれで一つの考え方だろう。現代の若い世代の東洋人指揮者が、マーラーの交響曲における「愛」の概念をこのような形で具象化しているとすれば、それも興味深いことではある。
2023・10・13(金)東京二期会「ドン・カルロ」
東京文化会館大ホール 4時
シュトゥットガルト州立劇場との提携公演として、ロッテ・デ・ベア(ウィーン・フォルクスオーパー芸術監督)が同劇場で2019年秋に演出した新プロダクションが上演された。
第1幕に「フォンテンブローの森」の場面を復活させた5幕版によるイタリア語上演だが、モデナ版ともまた違い、独自の手が加えられている。
今回は、横須賀で1回、札幌で2回、東京で3回━━というスケジュールがダブルキャストで組まれ、今日が東京初日公演である。
出演は、樋口達哉(ドン・カルロ)、竹多倫子(エリザベッタ)、小林啓倫(ロドリーゴ)、ジョン・ハオ(フィリッポ2世)、狩野賢一(宗教裁判長)、清水華澄(エボリ公女)、畠山茂(修道士)、中野亜維里(テバルド)、前川健生(レルマ伯爵)、七澤結(天よりの声)他。東京フィルハーモニー交響楽団と二期会合唱団。指揮は、新鋭レオナルド・シーニ。なお、舞台美術はクリストフ・ヘッツァー、照明はアレックス・ブロックだった。
とにかく、暗くて、重くて、悲劇の権化のような舞台だ。
プレトークを行なった演出家ロッテ・デ・ベアによれば、舞台は30年後の世界で、地球温暖化はいよいよ進み、難民が増加し、宗教(キリスト教)が再び力を増し、その権力の中で自由が失われて行き、暴力と殺人が進み、主人公カルロはその中で精神を病んで行く━━という設定にされている。
たしかにこれらは、決して読み替えではなく、もともと作品に内在している要素であろう。彼女の演出は、それを所謂グランドオペラ的な、豪壮華麗な色彩感にあふれたスペクタクルな舞台に仕上げるのではなく、権力、難民、戦争、政治の暗部、自由への欲求、闘争などの部分のみを浮き彫りにする解釈なのである。従って、暗く重い舞台になるのは当然である。
「伝統的な手法で舞台をつくれば、ただ昔の人たちはそうだったんだな、ということだけで済んでしまう。だが自分はこの物語を、現代の世界で現実に起こっている事柄を象徴するものとして描き出したい」とデ・ベアは言う。ヨーロッパではもうずいぶん以前から試みられている手法ではある。
そうした視点から見ると、今回の「ドン・カルロ」は、かなりよく出来た舞台と言えるのではないか。冒頭シーンで悲惨な難民の群れが現れ、「政略結婚により戦争が終って平和が甦るのなら、王族たちはどうか自分を犠牲にしてでもわれわれ難民を救って欲しい」とエリザベッタに迫る場面など、いかにも現代の難民の心理そのものだろう。事あるごとに現れては暴力をふるう警吏(軍隊)など、観ていると不愉快にはなるけれども、戦争が起こっている地域では、それは日常の出来事であるはずである。
オペラをただの美しい娯楽と考えている人々には、劇中の火刑や処刑、暗殺といった場面はただの絵空事にしか感じられないので、今回のような現実的な演出は、概して嫌われることになろう。だが一方、世界のオペラ演出界に於いてはありふれたものになっている手法を全く無視するわけには行くまい。その意味で、二期会が続けているこの路線は、意義あるものであると私は思う。
演出の細部について二、三メモすれば、例えばあのスペクタクルな「火刑の場面」は現れない。その代わり、その場面に先立ち、バレエ音楽のパロディとしてヴィンクラーの「プッシー・ポルカ」なる曲が演奏され、ここで人形が火刑にされるグロテスクな光景が展開され、カルロがそれを「幻想」として目の当たりにする、という場面が挿入される。
これがカルロを狂気に導く決定的な引き金となるのは明らかであろう。そのあとのカルロの行動や言葉が常軌を逸したものになって行くのも、これで説明がつくというものである。
もうひとつは、カルロを導く「謎の修道士」を、先帝カルロ5世の亡霊などという訳の解らぬ存在にせず、最後まで修道士として押し切ったこと(彼は殺される)。これで最終場面は、オリジナルのト書きよりも遥かに明解になっただろう。
また、ちょっと面白い新解釈は、エボリ公女を異様な目つきで窺いつつコーラスにも参加していた女性が、実はエリザベッタのお付きの伯爵夫人で、エボリ公女をスパイする役目を持っていたという設定。その伯爵夫人が王から罰せられて追放されるという極端な処分に遭う(今回の演出では衛兵から殴る蹴るの暴行を受けて、多分殺されるのだろう)のも、この理由の方が筋も通る。
その他、フォンテーヌブローの森の場面で、カルロとエリザベッタがベッドシーンを見せる設定などは、2人がすでに深い関係を持ったことを強調するだろう。またフィリッポ2世が「妻(エリザベッタ)はわしを愛してはおらぬ」と嘆くアリアを歌う有名な場面でも、ベッドで彼女がそっぽを向いて寝ているという光景を加えることによって、より具体的な描き方になるだろう。
まあ、こんなのは、無くもがなの余計な設定と言えるかもしれないし、第一、フィリッポ2世がパジャマ姿であのアリアを歌うなどという光景には私も些か辟易せざるを得ないのだが、権力者の裏側を描き出すという点では、より具体的になったかもしれない。
終演後のカーテンコールでは、演出家にブーイングも飛んだ。日本の歌劇場では久しぶりのブーイングである。演出家もしてやったりの表情で、反応アリ、と喜んだのではなかろうか。欧州系の演出家は、おざなりの拍手よりも、積極的な賛否の反応を歓迎するからである。
音楽的な面のことを書く余裕がなくなった。若いレオナルド・シーニの指揮はなかなかいい。東京フィルが引き締まった演奏を聴かせてくれた。歌手陣の中では、革命家ロドリーゴを歌った小林啓倫が最も印象に残る。
シュトゥットガルト州立劇場との提携公演として、ロッテ・デ・ベア(ウィーン・フォルクスオーパー芸術監督)が同劇場で2019年秋に演出した新プロダクションが上演された。
第1幕に「フォンテンブローの森」の場面を復活させた5幕版によるイタリア語上演だが、モデナ版ともまた違い、独自の手が加えられている。
今回は、横須賀で1回、札幌で2回、東京で3回━━というスケジュールがダブルキャストで組まれ、今日が東京初日公演である。
出演は、樋口達哉(ドン・カルロ)、竹多倫子(エリザベッタ)、小林啓倫(ロドリーゴ)、ジョン・ハオ(フィリッポ2世)、狩野賢一(宗教裁判長)、清水華澄(エボリ公女)、畠山茂(修道士)、中野亜維里(テバルド)、前川健生(レルマ伯爵)、七澤結(天よりの声)他。東京フィルハーモニー交響楽団と二期会合唱団。指揮は、新鋭レオナルド・シーニ。なお、舞台美術はクリストフ・ヘッツァー、照明はアレックス・ブロックだった。
とにかく、暗くて、重くて、悲劇の権化のような舞台だ。
プレトークを行なった演出家ロッテ・デ・ベアによれば、舞台は30年後の世界で、地球温暖化はいよいよ進み、難民が増加し、宗教(キリスト教)が再び力を増し、その権力の中で自由が失われて行き、暴力と殺人が進み、主人公カルロはその中で精神を病んで行く━━という設定にされている。
たしかにこれらは、決して読み替えではなく、もともと作品に内在している要素であろう。彼女の演出は、それを所謂グランドオペラ的な、豪壮華麗な色彩感にあふれたスペクタクルな舞台に仕上げるのではなく、権力、難民、戦争、政治の暗部、自由への欲求、闘争などの部分のみを浮き彫りにする解釈なのである。従って、暗く重い舞台になるのは当然である。
「伝統的な手法で舞台をつくれば、ただ昔の人たちはそうだったんだな、ということだけで済んでしまう。だが自分はこの物語を、現代の世界で現実に起こっている事柄を象徴するものとして描き出したい」とデ・ベアは言う。ヨーロッパではもうずいぶん以前から試みられている手法ではある。
そうした視点から見ると、今回の「ドン・カルロ」は、かなりよく出来た舞台と言えるのではないか。冒頭シーンで悲惨な難民の群れが現れ、「政略結婚により戦争が終って平和が甦るのなら、王族たちはどうか自分を犠牲にしてでもわれわれ難民を救って欲しい」とエリザベッタに迫る場面など、いかにも現代の難民の心理そのものだろう。事あるごとに現れては暴力をふるう警吏(軍隊)など、観ていると不愉快にはなるけれども、戦争が起こっている地域では、それは日常の出来事であるはずである。
オペラをただの美しい娯楽と考えている人々には、劇中の火刑や処刑、暗殺といった場面はただの絵空事にしか感じられないので、今回のような現実的な演出は、概して嫌われることになろう。だが一方、世界のオペラ演出界に於いてはありふれたものになっている手法を全く無視するわけには行くまい。その意味で、二期会が続けているこの路線は、意義あるものであると私は思う。
演出の細部について二、三メモすれば、例えばあのスペクタクルな「火刑の場面」は現れない。その代わり、その場面に先立ち、バレエ音楽のパロディとしてヴィンクラーの「プッシー・ポルカ」なる曲が演奏され、ここで人形が火刑にされるグロテスクな光景が展開され、カルロがそれを「幻想」として目の当たりにする、という場面が挿入される。
これがカルロを狂気に導く決定的な引き金となるのは明らかであろう。そのあとのカルロの行動や言葉が常軌を逸したものになって行くのも、これで説明がつくというものである。
もうひとつは、カルロを導く「謎の修道士」を、先帝カルロ5世の亡霊などという訳の解らぬ存在にせず、最後まで修道士として押し切ったこと(彼は殺される)。これで最終場面は、オリジナルのト書きよりも遥かに明解になっただろう。
また、ちょっと面白い新解釈は、エボリ公女を異様な目つきで窺いつつコーラスにも参加していた女性が、実はエリザベッタのお付きの伯爵夫人で、エボリ公女をスパイする役目を持っていたという設定。その伯爵夫人が王から罰せられて追放されるという極端な処分に遭う(今回の演出では衛兵から殴る蹴るの暴行を受けて、多分殺されるのだろう)のも、この理由の方が筋も通る。
その他、フォンテーヌブローの森の場面で、カルロとエリザベッタがベッドシーンを見せる設定などは、2人がすでに深い関係を持ったことを強調するだろう。またフィリッポ2世が「妻(エリザベッタ)はわしを愛してはおらぬ」と嘆くアリアを歌う有名な場面でも、ベッドで彼女がそっぽを向いて寝ているという光景を加えることによって、より具体的な描き方になるだろう。
まあ、こんなのは、無くもがなの余計な設定と言えるかもしれないし、第一、フィリッポ2世がパジャマ姿であのアリアを歌うなどという光景には私も些か辟易せざるを得ないのだが、権力者の裏側を描き出すという点では、より具体的になったかもしれない。
終演後のカーテンコールでは、演出家にブーイングも飛んだ。日本の歌劇場では久しぶりのブーイングである。演出家もしてやったりの表情で、反応アリ、と喜んだのではなかろうか。欧州系の演出家は、おざなりの拍手よりも、積極的な賛否の反応を歓迎するからである。
音楽的な面のことを書く余裕がなくなった。若いレオナルド・シーニの指揮はなかなかいい。東京フィルが引き締まった演奏を聴かせてくれた。歌手陣の中では、革命家ロドリーゴを歌った小林啓倫が最も印象に残る。
2023・10・12(木)金沢の沼尻竜典指揮大阪フィルハーモニー交響楽団
石川県立音楽堂コンサートホール 7時
日本オーケストラ連盟が各オーケストラと共同で主催する「オーケストラ・キャラバン」の一環。大阪フィルが石川県立音楽堂のホールでどのような音を聴かせるかに興味があったので、北陸新幹線に飛び乗って聴きに行く。
6時15分から2階ホワイエでプレトークがあると聞き、覗いてみる。バー・カウンターがある場所なので、ジュースやコーヒーを前に話を聞いている人も多く、寛いだ楽しさが感じられる。
トークは、大阪フィルの演奏会だから、てっきり大阪フィル(沼尻竜典マエストロ、福山修事務局長)だけのプレトークかと思っていたら、何とこの石川県立音楽堂をホームグラウンドとするオーケストラ・アンサンブル金沢(アーティスティック・リーダーの広上淳一マエストロ、床坊剛ゼネラルマネージャー)も一緒に台上に乗って喋っている。そして先に大阪フィル側が退場すると、そのあとはOEK側がオケのPRをして締めて行った。何ともしたたかなこの戦略には、なるほどと感心させられ、笑いを誘われた次第。
さて、肝心の大阪フィルである。今回、沼尻竜典の客演指揮により行われているキャラバンは、ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲、サン=サーンスの「チェロ協奏曲第1番」(ソリストは佐藤晴真)、ブラームスの「交響曲第4番」というプログラム。コンサートマスターは崔文洙。
オーケストラは弦14型編成で乗り込んで来て、序曲と交響曲ではその編成で演奏した。この石川県立音楽堂は、フェスティバルホールのような巨大なホールではないので、今回の編成は当を得ていたであろう。オーケストラの響きが、いつもより明るく感じられたのはホールのアコースティックの所為か、それとも沼尻竜典の指揮の所為か。
「4番」は、第2楽章の半ばから勢いに乗ったという感だ。同楽章後半の弦の厚みある音、第3楽章での強い推進力、第4楽章での沈静と昂揚の交錯などが印象に残ったが、力感は充分で、そのへんが大阪フィルらしい。
ただ、大阪での定期公演や、東京での演奏で聴く大阪フィルに比べると、この「4番」の性格からみれば、やや自由な感じの演奏であったと言えるかもしれない。それでも冒頭の序曲に比べれば、よほど神経を行き届かせた演奏に聞こえたことは確かであろう。
そして、アンコールで演奏した、同じホ短調のドヴォルジャークの「スラヴ舞曲作品72の2」が耳に残る。
協奏曲では、佐藤晴真の瑞々しい生気にあふれた伸びやかな演奏が快い。曲の終結では大いに昂揚し、オーケストラもサン=サーンスの作品としてはダイナミック過ぎるほどの盛り上がりで頂点をつくり上げて行った。
日本オーケストラ連盟が各オーケストラと共同で主催する「オーケストラ・キャラバン」の一環。大阪フィルが石川県立音楽堂のホールでどのような音を聴かせるかに興味があったので、北陸新幹線に飛び乗って聴きに行く。
6時15分から2階ホワイエでプレトークがあると聞き、覗いてみる。バー・カウンターがある場所なので、ジュースやコーヒーを前に話を聞いている人も多く、寛いだ楽しさが感じられる。
トークは、大阪フィルの演奏会だから、てっきり大阪フィル(沼尻竜典マエストロ、福山修事務局長)だけのプレトークかと思っていたら、何とこの石川県立音楽堂をホームグラウンドとするオーケストラ・アンサンブル金沢(アーティスティック・リーダーの広上淳一マエストロ、床坊剛ゼネラルマネージャー)も一緒に台上に乗って喋っている。そして先に大阪フィル側が退場すると、そのあとはOEK側がオケのPRをして締めて行った。何ともしたたかなこの戦略には、なるほどと感心させられ、笑いを誘われた次第。
さて、肝心の大阪フィルである。今回、沼尻竜典の客演指揮により行われているキャラバンは、ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲、サン=サーンスの「チェロ協奏曲第1番」(ソリストは佐藤晴真)、ブラームスの「交響曲第4番」というプログラム。コンサートマスターは崔文洙。
オーケストラは弦14型編成で乗り込んで来て、序曲と交響曲ではその編成で演奏した。この石川県立音楽堂は、フェスティバルホールのような巨大なホールではないので、今回の編成は当を得ていたであろう。オーケストラの響きが、いつもより明るく感じられたのはホールのアコースティックの所為か、それとも沼尻竜典の指揮の所為か。
「4番」は、第2楽章の半ばから勢いに乗ったという感だ。同楽章後半の弦の厚みある音、第3楽章での強い推進力、第4楽章での沈静と昂揚の交錯などが印象に残ったが、力感は充分で、そのへんが大阪フィルらしい。
ただ、大阪での定期公演や、東京での演奏で聴く大阪フィルに比べると、この「4番」の性格からみれば、やや自由な感じの演奏であったと言えるかもしれない。それでも冒頭の序曲に比べれば、よほど神経を行き届かせた演奏に聞こえたことは確かであろう。
そして、アンコールで演奏した、同じホ短調のドヴォルジャークの「スラヴ舞曲作品72の2」が耳に残る。
協奏曲では、佐藤晴真の瑞々しい生気にあふれた伸びやかな演奏が快い。曲の終結では大いに昂揚し、オーケストラもサン=サーンスの作品としてはダイナミック過ぎるほどの盛り上がりで頂点をつくり上げて行った。
2023・10・11(水)ヘンデル:「ジュリオ・チェーザレ」
東京オペラシティ コンサートホール 4時
「鈴木優人プロデュース BCJオペラシリーズVol.3」と題された公演。
ヘンデルのオペラ「ジュリオ・チェーザレ」(ジュリアス・シーザー)のセミ・ステージ形式。
鈴木優人の指揮とチェンバロ、バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の演奏、佐藤美晴の演出、稲葉直人の照明、臼井梨恵の衣装。
出演はティム・ミード(チェーザレ)、マリアンネ・ベアーテ・キーラント(ポンペイウスの妻コーネリア)、森麻季(クレオパトラ)、アレクサンダー・チャンス(その弟トロメーオ)、大西宇宙(その腹心アキッラ)、加藤宏隆(護民官クーリオ)、藤木大地(召使ニレーノ)、松井亜希(ポンペイウスの息子セスト)。
これは、力作、成功作と言っていいだろう。まず鈴木優人のスピーディで切れの良い指揮と、BCJの張りのある演奏が快く━━音楽には登場人物の心理の変化に即した表情の変化と陰翳がもう少し欲しいという気はしたものの━━ヘンデルの音楽の良さを充分に感じさせてくれた。
また、久しぶりに観る佐藤美晴の演出も要を得て、ステージ中央に小さなピットのように枠で囲ったオーケストラを配置、その周囲に演技空間を置き、時にユーモアを交えた人物の演技により闊達な舞台を繰り広げ、ストーリーを極めて解り易く描き出していた。
しかも、歌手陣が揃って快演だったので、音楽的にもすこぶる聴き応えがあった。チェーザレのミード、コーネリアのキーラントの風格は言うまでもなく、敵役トロメーオのチャンスのアクの強い歌唱と演技もいい。そして、強靭なバリトンにより特に前半で凄味を利かせたアキッラの大西宇宙、家政夫のミタゾノみたいな雰囲気を撒き散らして笑いを誘い怪演したニレーノの藤木大地。特にクレオパトラ役の森麻季の華麗で鮮やかな歌唱は素晴らしく、客席を沸かせていた。
ただ、セストの松井亜希の第3幕における演技だけは、ちょっと解釈に苦しむところがあったが━━。
ともあれこうして、特に中盤から後半にかけては、全く長さを感じさせぬ演奏と舞台になっていた。
休憩2回を含み、終演は8時半。
「鈴木優人プロデュース BCJオペラシリーズVol.3」と題された公演。
ヘンデルのオペラ「ジュリオ・チェーザレ」(ジュリアス・シーザー)のセミ・ステージ形式。
鈴木優人の指揮とチェンバロ、バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の演奏、佐藤美晴の演出、稲葉直人の照明、臼井梨恵の衣装。
出演はティム・ミード(チェーザレ)、マリアンネ・ベアーテ・キーラント(ポンペイウスの妻コーネリア)、森麻季(クレオパトラ)、アレクサンダー・チャンス(その弟トロメーオ)、大西宇宙(その腹心アキッラ)、加藤宏隆(護民官クーリオ)、藤木大地(召使ニレーノ)、松井亜希(ポンペイウスの息子セスト)。
これは、力作、成功作と言っていいだろう。まず鈴木優人のスピーディで切れの良い指揮と、BCJの張りのある演奏が快く━━音楽には登場人物の心理の変化に即した表情の変化と陰翳がもう少し欲しいという気はしたものの━━ヘンデルの音楽の良さを充分に感じさせてくれた。
また、久しぶりに観る佐藤美晴の演出も要を得て、ステージ中央に小さなピットのように枠で囲ったオーケストラを配置、その周囲に演技空間を置き、時にユーモアを交えた人物の演技により闊達な舞台を繰り広げ、ストーリーを極めて解り易く描き出していた。
しかも、歌手陣が揃って快演だったので、音楽的にもすこぶる聴き応えがあった。チェーザレのミード、コーネリアのキーラントの風格は言うまでもなく、敵役トロメーオのチャンスのアクの強い歌唱と演技もいい。そして、強靭なバリトンにより特に前半で凄味を利かせたアキッラの大西宇宙、家政夫のミタゾノみたいな雰囲気を撒き散らして笑いを誘い怪演したニレーノの藤木大地。特にクレオパトラ役の森麻季の華麗で鮮やかな歌唱は素晴らしく、客席を沸かせていた。
ただ、セストの松井亜希の第3幕における演技だけは、ちょっと解釈に苦しむところがあったが━━。
ともあれこうして、特に中盤から後半にかけては、全く長さを感じさせぬ演奏と舞台になっていた。
休憩2回を含み、終演は8時半。
2023・10・7(土)沖澤のどか指揮東京交響楽団
ミューザ川崎シンフォニーホール 2時
「名曲全集」シリーズの一環。日の出の勢いにある沖澤のどかが客演、ストラヴィンスキー・プロを指揮した。
「プルチネッラ」組曲、「詩篇交響曲」(NHK東京児童合唱団、二期会合唱団が協演)、「ペトルーシュカ」(1947年版全曲、ピアノは長尾洋史)。コンサートマスターは小林壱成。
3曲とも、実に整然たる演奏。沖澤のどかは、時に激烈な指揮をすることがある。例えば読響を指揮した時のシベリウス(☞2021年10月10日)がそうだった。その一方、極めて端整で造型的な演奏をつくることもある。その基準がちょっと掴み難いこともあるのだが、今日の演奏ではとにかく端整な、几帳面なほど正確なストラヴィンスキーが立ち現れていた。
ただ、そういうスタイルの演奏は、新古典主義系の作品ではツボに嵌るが、初期の原始主義時代の作品である「ペトルーシュカ」の場合は如何なものだろうか?
もし彼女が意図的に、「ペトルーシュカ」にのちの新古典主義スタイルの作品の萌芽を感じ取って、それを浮き彫りにしようとしていたのなら、その意欲的な試みの是非についての議論が必要となるだろう。
「名曲全集」シリーズの一環。日の出の勢いにある沖澤のどかが客演、ストラヴィンスキー・プロを指揮した。
「プルチネッラ」組曲、「詩篇交響曲」(NHK東京児童合唱団、二期会合唱団が協演)、「ペトルーシュカ」(1947年版全曲、ピアノは長尾洋史)。コンサートマスターは小林壱成。
3曲とも、実に整然たる演奏。沖澤のどかは、時に激烈な指揮をすることがある。例えば読響を指揮した時のシベリウス(☞2021年10月10日)がそうだった。その一方、極めて端整で造型的な演奏をつくることもある。その基準がちょっと掴み難いこともあるのだが、今日の演奏ではとにかく端整な、几帳面なほど正確なストラヴィンスキーが立ち現れていた。
ただ、そういうスタイルの演奏は、新古典主義系の作品ではツボに嵌るが、初期の原始主義時代の作品である「ペトルーシュカ」の場合は如何なものだろうか?
もし彼女が意図的に、「ペトルーシュカ」にのちの新古典主義スタイルの作品の萌芽を感じ取って、それを浮き彫りにしようとしていたのなら、その意欲的な試みの是非についての議論が必要となるだろう。
2023・10・6(金)ギュレル・アイカル指揮イスタンブール国立交響楽団
東京オペラシティ コンサートホール 7時
文化庁主催、日本オーケストラ連盟主催の「アジア オーケストラ ウィーク」の一環。
このオーケストラは2003年に来日し、小松一彦の指揮で演奏会を行なっているが、その際に聴いたかどうか、記憶が定かではない。
ルーツを辿れば1827年に創立されたオーケストラとのことだが、組織的には1945年に設立されたイスタンブール市管弦楽団が1972年に現名称となった由(NAXOS掲載のプロフィールによる)。
今回はギュレル・アイカルの指揮で、芥川也寸志の「弦楽のための三楽章《トリプティーク》」、ウルヴィ・ジェマル・エルキンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはチハト・アスキン)、チャイコフスキーの「交響曲第4番」というプログラム。
他に、アスキンがソロ・ヴァイオリンで演奏したアンコールは、彼自らの編曲になるという日本の曲「さくら」。オーケストラのアンコールは、エルキンの「コチェクチェ」(と会場には掲示されていたが、他に「キョチェケ」と日本語表記している資料もある)。
とにかく、恐ろしく変わった音色を出すオーケストラだ。どの曲の演奏においても、弦の響きは極度に硬く、しかも濃厚な脂ぎった色彩感に満たされている。芥川也寸志の作品が、聴き慣れた「日本の音楽」でなく、まるで中近東かどこか━━たとえばアルメニアの作品であるかのようにさえ聞こえたのは、その特殊な音色による演奏の所為だったのではなかろうか。
アスキン編曲と演奏の「さくら」も、編曲そのものはかなり凝った手法だが、実にギラギラした、異様な音色と表情に満たされていた。
チャイコフスキーの「第4交響曲」が、極めてごつごつした構築で、あまり他に例のない個所で音を切るなどというのはもちろん指揮者の解釈によるものだろうが、オーケストラの音色や表情などにも、何か形容し難い、濃厚で土俗的な━━とでも言ったらいいのだろうか、とにかく的確な表現が見つからないのだが━━あの賑やかなトルコ軍楽隊の演奏に聴かれる音色(リズムではない!)をつい連想してしまうようなイメージが備わっていたのではなかろうか(これは同楽団のCDからは伝わって来ない)。良し悪しの問題ではなく、お国柄といったものの面白さを感じさせてくれた今回の演奏だった。
なお、アンコールでの「コチェクチェ」だか「キョチェケ」だかはともかく、いくつかの個所に、エネスクの「ルーマニア狂詩曲第1番」を連想させる曲想があったのが、作曲者がイスタンブール(旧コンスタンティノープル)出身であることを考え合わせると、興味深いことだった。
文化庁主催、日本オーケストラ連盟主催の「アジア オーケストラ ウィーク」の一環。
このオーケストラは2003年に来日し、小松一彦の指揮で演奏会を行なっているが、その際に聴いたかどうか、記憶が定かではない。
ルーツを辿れば1827年に創立されたオーケストラとのことだが、組織的には1945年に設立されたイスタンブール市管弦楽団が1972年に現名称となった由(NAXOS掲載のプロフィールによる)。
今回はギュレル・アイカルの指揮で、芥川也寸志の「弦楽のための三楽章《トリプティーク》」、ウルヴィ・ジェマル・エルキンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはチハト・アスキン)、チャイコフスキーの「交響曲第4番」というプログラム。
他に、アスキンがソロ・ヴァイオリンで演奏したアンコールは、彼自らの編曲になるという日本の曲「さくら」。オーケストラのアンコールは、エルキンの「コチェクチェ」(と会場には掲示されていたが、他に「キョチェケ」と日本語表記している資料もある)。
とにかく、恐ろしく変わった音色を出すオーケストラだ。どの曲の演奏においても、弦の響きは極度に硬く、しかも濃厚な脂ぎった色彩感に満たされている。芥川也寸志の作品が、聴き慣れた「日本の音楽」でなく、まるで中近東かどこか━━たとえばアルメニアの作品であるかのようにさえ聞こえたのは、その特殊な音色による演奏の所為だったのではなかろうか。
アスキン編曲と演奏の「さくら」も、編曲そのものはかなり凝った手法だが、実にギラギラした、異様な音色と表情に満たされていた。
チャイコフスキーの「第4交響曲」が、極めてごつごつした構築で、あまり他に例のない個所で音を切るなどというのはもちろん指揮者の解釈によるものだろうが、オーケストラの音色や表情などにも、何か形容し難い、濃厚で土俗的な━━とでも言ったらいいのだろうか、とにかく的確な表現が見つからないのだが━━あの賑やかなトルコ軍楽隊の演奏に聴かれる音色(リズムではない!)をつい連想してしまうようなイメージが備わっていたのではなかろうか(これは同楽団のCDからは伝わって来ない)。良し悪しの問題ではなく、お国柄といったものの面白さを感じさせてくれた今回の演奏だった。
なお、アンコールでの「コチェクチェ」だか「キョチェケ」だかはともかく、いくつかの個所に、エネスクの「ルーマニア狂詩曲第1番」を連想させる曲想があったのが、作曲者がイスタンブール(旧コンスタンティノープル)出身であることを考え合わせると、興味深いことだった。
2023・10・4(水)新国立劇場「修道女アンジェリカ」「子どもと魔法」
新国立劇場オペラパレス 7時
新国立劇場の新シーズン開幕公演。オープニング公演としてはちょっと変わったプログラムだが、「母子の愛のダブルビル」というコンセプトを聞いて、なるほど、そういう捉え方もあるか、と納得した。
指揮は沼尻竜典、演出が粟國淳、美術が横田あつみ、照明が大島祐夫である。オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団。
第1部は、プッチーニの「修道女アンジェリカ」。キアーラ・イゾットン(アンジェリカ)、斉藤純子(公爵夫人)、塩崎めぐみ(修道院長)その他の歌手陣。
第2部がラヴェルの「子どもと魔法」で、クロエ・ブリオ(子ども)、斉藤純子(お母さん)、田中大揮(肘掛け椅子他)、盛田麻央(安楽椅子他)、三宅理恵(火他)、河野鉄平(柱時計他)その他の歌手陣。
アンジェリカのイゾットンは少し叫び過ぎの感があったけれども、愛する子の死を聞いた母の絶望を、激しい感情の爆発の形でよく表現していただろう。
いっぽう、冷徹な公爵夫人を歌い演じた齊藤純子は、演技にはもう少し凄味が欲しかったものの、歌唱の上ではアンジェリカを圧迫する強い存在感を聴かせてくれた。彼女は「子どもと魔法」では一転して優しいお母さんの役柄を受け持ったが、但しこちらの方は出番が少ない。
今回の二つのプロダクションで際立ったのは、回転舞台やセリなど、劇場の持つ舞台機構を久しぶりに活用したことだろう。新国立劇場にはせっかく優れた舞台機構が備わっているのに、開館以来、それを使いこなした演出があまりに少ないことを残念に思っていた。今回の「子どもと魔法」では、そのセリと映像とを巧く組み合わせ、メルヘン的な楽しさを出すのに成功していたと思われる。
ただ、不満を言えばこの「子どもと魔法」、演出に━━いや、振付か?━━に少々雑然とした印象が感じられなくもなく、とりわけ物語の転回点となるはずの、子どもがリスの傷の手当てをしてやったことに動物たちが驚き、いっぺんに子どもの味方になってしまう個所での描写があまり明快でなかったことに物足りなさを感じた次第である。またこの部分での字幕にも、もっと主語を明確にするなどの工夫が欲しかったところだ。
西のびわ湖ホールで盛名をとどろかせた沼尻竜典が、やっと新国立劇場のシーズン開幕公演を指揮するという世になったのは、祝着である。欲を言えば音楽にもう少し滔々とした、一貫した流れがあったらとは思ったが、今後に期待しよう。彼は来月も日生劇場でヴェルディの「マクベス」を指揮することになっている。
新国立劇場の新シーズン開幕公演。オープニング公演としてはちょっと変わったプログラムだが、「母子の愛のダブルビル」というコンセプトを聞いて、なるほど、そういう捉え方もあるか、と納得した。
指揮は沼尻竜典、演出が粟國淳、美術が横田あつみ、照明が大島祐夫である。オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団。
第1部は、プッチーニの「修道女アンジェリカ」。キアーラ・イゾットン(アンジェリカ)、斉藤純子(公爵夫人)、塩崎めぐみ(修道院長)その他の歌手陣。
第2部がラヴェルの「子どもと魔法」で、クロエ・ブリオ(子ども)、斉藤純子(お母さん)、田中大揮(肘掛け椅子他)、盛田麻央(安楽椅子他)、三宅理恵(火他)、河野鉄平(柱時計他)その他の歌手陣。
アンジェリカのイゾットンは少し叫び過ぎの感があったけれども、愛する子の死を聞いた母の絶望を、激しい感情の爆発の形でよく表現していただろう。
いっぽう、冷徹な公爵夫人を歌い演じた齊藤純子は、演技にはもう少し凄味が欲しかったものの、歌唱の上ではアンジェリカを圧迫する強い存在感を聴かせてくれた。彼女は「子どもと魔法」では一転して優しいお母さんの役柄を受け持ったが、但しこちらの方は出番が少ない。
今回の二つのプロダクションで際立ったのは、回転舞台やセリなど、劇場の持つ舞台機構を久しぶりに活用したことだろう。新国立劇場にはせっかく優れた舞台機構が備わっているのに、開館以来、それを使いこなした演出があまりに少ないことを残念に思っていた。今回の「子どもと魔法」では、そのセリと映像とを巧く組み合わせ、メルヘン的な楽しさを出すのに成功していたと思われる。
ただ、不満を言えばこの「子どもと魔法」、演出に━━いや、振付か?━━に少々雑然とした印象が感じられなくもなく、とりわけ物語の転回点となるはずの、子どもがリスの傷の手当てをしてやったことに動物たちが驚き、いっぺんに子どもの味方になってしまう個所での描写があまり明快でなかったことに物足りなさを感じた次第である。またこの部分での字幕にも、もっと主語を明確にするなどの工夫が欲しかったところだ。
西のびわ湖ホールで盛名をとどろかせた沼尻竜典が、やっと新国立劇場のシーズン開幕公演を指揮するという世になったのは、祝着である。欲を言えば音楽にもう少し滔々とした、一貫した流れがあったらとは思ったが、今後に期待しよう。彼は来月も日生劇場でヴェルディの「マクベス」を指揮することになっている。
2023・10・1(日)アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル
ミューザ川崎シンフォニーホール 5時
マチネが終ってから一度自宅へ戻り、夕方にまた川崎へ出直す。
こちらは、プログラムは予め発表しない、会場に掲示もしない、曲目はシフがステージ上で紹介しながら演奏して行く━━という形のリサイタル。
実際に演奏されたのは、第1部にバッハの「ゴルトベルク変奏曲」の「アリア」と「フランス組曲第5番」、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ジーグK.574」、ブラームスの「間奏曲Op.117」3曲と「間奏曲Op.118の2」、シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」、第2部にバッハの「半音階的幻想曲とフーガ」、メンデルスゾーンの「厳格な変奏曲」、ベートーヴェンの「ソナタ《テンペスト》」で、更にアンコールとしてバッハの「イタリア協奏曲」第1楽章、モーツァルトの「ソナタ ハ長調K.545」第1楽章、シューマンの「楽しき農夫」、という具合。
1曲ごとにシフの話と、その通訳が入るので、コンサートは長引き、終演は結局8時20分頃になった。正味3時間、長い演奏会だった。
アンコールを除くプログラム本体は、J・S・バッハの音楽と、それが後世に及ぼした影響━━といったような流れが基調となっており、また第2部は「ニ短調」で統一されるというように、ひとつのコンセプトに貫かれた選曲だったことは確かであろう。作品群の性格から、シフの演奏も総じて瞑想的で思索的なものになった。
「テンペスト」も、普通のリサイタルにおける所謂「ベートーヴェンのソナタ」としての演奏とは若干ニュアンスの異なるスタイルになっていたのが面白かったが、それは第3楽章が遅いテンポで弾かれたためもあったかもしれない(シフは、普通のピアニストはみんなこれを速すぎるテンポで演奏したがる、と批判していた)。
そして、アンコールの3曲で、シフはプログラム本体の重厚でシリアスな雰囲気を見事に打ち払う。なかなか気の利いた選曲というべきだろう。
シフの話は興味深い内容だったけれども、本人もボソボソ喋るし、何より通訳がプロではないので話し方にも明晰さを欠く、といった具合なので、3時間にわたり気持を集中させるのは些か疲れたのは事実であった。
通訳というものは常に明晰明快でなければならず、曲名や音楽用語など、あまり詳しくない人にも完璧に解るように語らなければならぬ責任がある。その意味では、今日の通訳氏は全くそれに向いていなかったと言わなければならない。
もっとも、音楽史にも精通しているような一流のプロの通訳に、3時間の本番中ずっとシフのうしろの椅子に座っているような滅私奉公ができるはずはないから、その点では今日の通訳君はよくやってくれたということになろう。
マチネが終ってから一度自宅へ戻り、夕方にまた川崎へ出直す。
こちらは、プログラムは予め発表しない、会場に掲示もしない、曲目はシフがステージ上で紹介しながら演奏して行く━━という形のリサイタル。
実際に演奏されたのは、第1部にバッハの「ゴルトベルク変奏曲」の「アリア」と「フランス組曲第5番」、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ジーグK.574」、ブラームスの「間奏曲Op.117」3曲と「間奏曲Op.118の2」、シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」、第2部にバッハの「半音階的幻想曲とフーガ」、メンデルスゾーンの「厳格な変奏曲」、ベートーヴェンの「ソナタ《テンペスト》」で、更にアンコールとしてバッハの「イタリア協奏曲」第1楽章、モーツァルトの「ソナタ ハ長調K.545」第1楽章、シューマンの「楽しき農夫」、という具合。
1曲ごとにシフの話と、その通訳が入るので、コンサートは長引き、終演は結局8時20分頃になった。正味3時間、長い演奏会だった。
アンコールを除くプログラム本体は、J・S・バッハの音楽と、それが後世に及ぼした影響━━といったような流れが基調となっており、また第2部は「ニ短調」で統一されるというように、ひとつのコンセプトに貫かれた選曲だったことは確かであろう。作品群の性格から、シフの演奏も総じて瞑想的で思索的なものになった。
「テンペスト」も、普通のリサイタルにおける所謂「ベートーヴェンのソナタ」としての演奏とは若干ニュアンスの異なるスタイルになっていたのが面白かったが、それは第3楽章が遅いテンポで弾かれたためもあったかもしれない(シフは、普通のピアニストはみんなこれを速すぎるテンポで演奏したがる、と批判していた)。
そして、アンコールの3曲で、シフはプログラム本体の重厚でシリアスな雰囲気を見事に打ち払う。なかなか気の利いた選曲というべきだろう。
シフの話は興味深い内容だったけれども、本人もボソボソ喋るし、何より通訳がプロではないので話し方にも明晰さを欠く、といった具合なので、3時間にわたり気持を集中させるのは些か疲れたのは事実であった。
通訳というものは常に明晰明快でなければならず、曲名や音楽用語など、あまり詳しくない人にも完璧に解るように語らなければならぬ責任がある。その意味では、今日の通訳氏は全くそれに向いていなかったと言わなければならない。
もっとも、音楽史にも精通しているような一流のプロの通訳に、3時間の本番中ずっとシフのうしろの椅子に座っているような滅私奉公ができるはずはないから、その点では今日の通訳君はよくやってくれたということになろう。
2023・10・1(日)モーツァルト・マチネ スダーン指揮東京響
ミューザ川崎シンフォニーホール 11時
東京交響楽団の前音楽監督(現桂冠指揮者)で、この「モーツァルト・マチネ」シリーズの創設者でもあるユベール・スダーンの指揮するモーツァルトを、久しぶりに聴く。スダーンはこのシリーズには5年ぶりの登場、とどこかに書いてあったような気がしたが、もうそんなになるのか。
プログラムは「ディヴェルティメント ニ長調K.136」、「交響曲第31番ニ長調《パリ》」、「交響曲第35番ニ長調《ハフナー》」というもので、アンコールは「パリ交響曲」の第2楽章。
スダーンのモーツァルトは、やはりいい。引き締まったアンサンブルだが、響きには凝縮よりもむしろ膨らみがあって、柔らかさとあたたかさを感じさせる。シンフォニックで厚みのある音だが、決して物々しくはならない。それはまさに昔ながらのスダーンの音楽だが、強いて変化を感じさせたところがあるとすれば、やや自由な解放感のようなものが加わったか、というところか。
いずれにせよスダーンのことだから、きっとまた東響を絞り上げたのだろうな、と勝手に考えていたのだが、楽屋に立ち寄ってスダーンから話を聞いたら、「驚くなよ、リハーサルはただ1回だけだ」と笑っていた。事務局でもそう言っていたから、たしかなのだろう。しかし、たった1回の練習で「スダーンの音」が復活するとは。オーケストラ自身が昔の音を覚えていたのだろうか。
ただ、今日は客員奏者も少なからず乗っていたようだから、そうするとやはりスダーンのカリスマ性か、ということになるが━━。とにかく、久しぶりに、いいモーツァルトを聴いた感。コンサートマスターは関朋岳(客員)。
東京交響楽団の前音楽監督(現桂冠指揮者)で、この「モーツァルト・マチネ」シリーズの創設者でもあるユベール・スダーンの指揮するモーツァルトを、久しぶりに聴く。スダーンはこのシリーズには5年ぶりの登場、とどこかに書いてあったような気がしたが、もうそんなになるのか。
プログラムは「ディヴェルティメント ニ長調K.136」、「交響曲第31番ニ長調《パリ》」、「交響曲第35番ニ長調《ハフナー》」というもので、アンコールは「パリ交響曲」の第2楽章。
スダーンのモーツァルトは、やはりいい。引き締まったアンサンブルだが、響きには凝縮よりもむしろ膨らみがあって、柔らかさとあたたかさを感じさせる。シンフォニックで厚みのある音だが、決して物々しくはならない。それはまさに昔ながらのスダーンの音楽だが、強いて変化を感じさせたところがあるとすれば、やや自由な解放感のようなものが加わったか、というところか。
いずれにせよスダーンのことだから、きっとまた東響を絞り上げたのだろうな、と勝手に考えていたのだが、楽屋に立ち寄ってスダーンから話を聞いたら、「驚くなよ、リハーサルはただ1回だけだ」と笑っていた。事務局でもそう言っていたから、たしかなのだろう。しかし、たった1回の練習で「スダーンの音」が復活するとは。オーケストラ自身が昔の音を覚えていたのだろうか。
ただ、今日は客員奏者も少なからず乗っていたようだから、そうするとやはりスダーンのカリスマ性か、ということになるが━━。とにかく、久しぶりに、いいモーツァルトを聴いた感。コンサートマスターは関朋岳(客員)。
2023・9・29(金)ハインツ・ホリガー指揮大阪フィルハーモニー交響楽団
フェスティバルホール 7時
ハインツ・ホリガー、今度は大阪フィルに客演して、またまた元気なところを見せた。
第1部では、まずルトスワフスキの「オーボエとハープのための二重協奏曲」(約20分)を吹き振りし、続いてプログラムにはなかったルトスワフスキの「三つの断章」からの「マギア」という小品をハープ・ソロとの協演で吹き、さらにホリガー自身の作品「音のかけら」(約15分)を指揮。
そして第2部では、シューベルトの「交響曲第8番《ザ・グレイト》」を、リピート指定を全て遵守しての60分をエネルギッシュな指揮ぶりで演奏する、という具合である。
ハープのソロは平野花子、コンサートマスターは崔文洙。
「二重協奏曲」は、打楽器群と小編成の弦楽器群との組み合わせによる作品。オーボエの音色もアンサンブルも非常に鋭角的で、衝撃的な打撃にも事欠かない。1980年の作で、初演したのもホリガー夫妻だったというから、彼にとっては特別な思いのこめられた曲であったろう。これは圧巻の演奏であった。
また、自作の「音のかけら」は大編成の管弦楽作品だが、断片的なモティーフが頻繁な休止を挟みつつ閃き、呟き、交錯して行く。響きが多彩なので、散漫という印象は全くない。
「ザ・グレイト」は14型編成が採られ、演奏は常にアニマート、活気にあふれて突進する。
総じて速いテンポが採られていたが、第2楽章の後半、最強奏の頂点を築いたあとの個所で、まるで精神が疲れ切ったか、あるいは音楽の高潮の意味をもう一度考え直すか、とでもいったように、極度にテンポを落したのが意外で、興味深かった。
ただしその後、以前のテンポに戻るあたりの呼吸に何となく自然さを欠き、もどかしさを感じさせたが、━━この辺りはオーケストラとの呼吸が未だ合っていないような感で、明日の公演ではもっとうまく行くかもしれない。
この楽章半ばの、あの有名なホルンの個所でも、オーケストラのバランスに些か粗っぽさを生じさせていたこと、そして演奏全体の緊密度という点でも少々物足りないものがあったことなども、2日目に期待したいところだ。
全曲最後のハ長調の和音には、稀なほどの大きなディミニュエンドが付されていた。「最後の部分は・・・・凱歌でもなんでもない。いわば疲れ果てた末の中断なのです」というホリガー自身のコメント(ソニークラシカルCD解説/プログラム冊子より引用)とともに、いろいろなことを考えさせる。
ハインツ・ホリガー、今度は大阪フィルに客演して、またまた元気なところを見せた。
第1部では、まずルトスワフスキの「オーボエとハープのための二重協奏曲」(約20分)を吹き振りし、続いてプログラムにはなかったルトスワフスキの「三つの断章」からの「マギア」という小品をハープ・ソロとの協演で吹き、さらにホリガー自身の作品「音のかけら」(約15分)を指揮。
そして第2部では、シューベルトの「交響曲第8番《ザ・グレイト》」を、リピート指定を全て遵守しての60分をエネルギッシュな指揮ぶりで演奏する、という具合である。
ハープのソロは平野花子、コンサートマスターは崔文洙。
「二重協奏曲」は、打楽器群と小編成の弦楽器群との組み合わせによる作品。オーボエの音色もアンサンブルも非常に鋭角的で、衝撃的な打撃にも事欠かない。1980年の作で、初演したのもホリガー夫妻だったというから、彼にとっては特別な思いのこめられた曲であったろう。これは圧巻の演奏であった。
また、自作の「音のかけら」は大編成の管弦楽作品だが、断片的なモティーフが頻繁な休止を挟みつつ閃き、呟き、交錯して行く。響きが多彩なので、散漫という印象は全くない。
「ザ・グレイト」は14型編成が採られ、演奏は常にアニマート、活気にあふれて突進する。
総じて速いテンポが採られていたが、第2楽章の後半、最強奏の頂点を築いたあとの個所で、まるで精神が疲れ切ったか、あるいは音楽の高潮の意味をもう一度考え直すか、とでもいったように、極度にテンポを落したのが意外で、興味深かった。
ただしその後、以前のテンポに戻るあたりの呼吸に何となく自然さを欠き、もどかしさを感じさせたが、━━この辺りはオーケストラとの呼吸が未だ合っていないような感で、明日の公演ではもっとうまく行くかもしれない。
この楽章半ばの、あの有名なホルンの個所でも、オーケストラのバランスに些か粗っぽさを生じさせていたこと、そして演奏全体の緊密度という点でも少々物足りないものがあったことなども、2日目に期待したいところだ。
全曲最後のハ長調の和音には、稀なほどの大きなディミニュエンドが付されていた。「最後の部分は・・・・凱歌でもなんでもない。いわば疲れ果てた末の中断なのです」というホリガー自身のコメント(ソニークラシカルCD解説/プログラム冊子より引用)とともに、いろいろなことを考えさせる。
2023・9・27(水)藤村実穂子リサイタル
東京文化会館小ホール 7時
これは「プラチナ・シリーズ」の一環。満席の聴衆を集めて行われた。ピアノはヴォルフラム・リーガー。
プログラムは、モーツァルトの「静けさは微笑み」「喜びの鼓動」「すみれ」「ルイーゼが不実な恋人の手紙を妬く時」「夕べの想い」で始められ、マーラーの「さすらう若人の歌」、ツェムリンスキーの「メーテルリンクの詩による6つの歌」、細川俊夫の「2つの日本の子守唄」と続く。アンコールで歌われたのはツェムリンスキーの「子守唄」「春の日」「夜のささやき」の3曲。
藤村実穂子の歌唱が、歌詞に応じて、あるいは曲想に応じて、歌の表情が虹の色のように変化して行く素晴らしさには、ただもう感嘆するしかない。やはりこの人は、わが国の歌手の中でずば抜けた存在である。
かつてワーグナーの作品を歌ってバイロイト祝祭劇場の空気をビリビリと震わせたあの名唱は今でも鮮明な記憶となっているが、あの頃もすでに彼女の歌唱には、ドイツ語の表現に見事なニュアンスが溢れていた。今では、それが歌曲を歌う時に、いっそう輝いて出るのだろう。
この日、私にとって最も印象深かったのは、マーラーの「さすらう若人の歌」だった。オーケストラと違って、リーガーのピアノは伸縮自在、極度のリタルダンドをも随所に出現させる。それはもちろん彼女の解釈に基づくものだろうが、そこで示される沈潜した表現は、この歌曲の主人公の感情の複雑さを映して余すところがない。そこまでやられてはとても耐えられない、とまで思わせられるほどの微細な表現だったが、強烈である。
これは「プラチナ・シリーズ」の一環。満席の聴衆を集めて行われた。ピアノはヴォルフラム・リーガー。
プログラムは、モーツァルトの「静けさは微笑み」「喜びの鼓動」「すみれ」「ルイーゼが不実な恋人の手紙を妬く時」「夕べの想い」で始められ、マーラーの「さすらう若人の歌」、ツェムリンスキーの「メーテルリンクの詩による6つの歌」、細川俊夫の「2つの日本の子守唄」と続く。アンコールで歌われたのはツェムリンスキーの「子守唄」「春の日」「夜のささやき」の3曲。
藤村実穂子の歌唱が、歌詞に応じて、あるいは曲想に応じて、歌の表情が虹の色のように変化して行く素晴らしさには、ただもう感嘆するしかない。やはりこの人は、わが国の歌手の中でずば抜けた存在である。
かつてワーグナーの作品を歌ってバイロイト祝祭劇場の空気をビリビリと震わせたあの名唱は今でも鮮明な記憶となっているが、あの頃もすでに彼女の歌唱には、ドイツ語の表現に見事なニュアンスが溢れていた。今では、それが歌曲を歌う時に、いっそう輝いて出るのだろう。
この日、私にとって最も印象深かったのは、マーラーの「さすらう若人の歌」だった。オーケストラと違って、リーガーのピアノは伸縮自在、極度のリタルダンドをも随所に出現させる。それはもちろん彼女の解釈に基づくものだろうが、そこで示される沈潜した表現は、この歌曲の主人公の感情の複雑さを映して余すところがない。そこまでやられてはとても耐えられない、とまで思わせられるほどの微細な表現だったが、強烈である。
2023・9・25(月)庄司紗矢香~フランスの風
サントリーホール 7時
ヴァイオリンの庄司紗矢香を中心に、ピアノのベンジャミン・グローヴナー、それにモディリアーニ弦楽四重奏団が顔を揃えたステージ。
ドビュッシーの「ヴァイオリン・ソナタ」、ラヴェルの「弦楽四重奏曲」、ショーソンの「ヴァイオリン、ピアノと弦楽四重奏のための協奏曲」という素晴らしいプログラム。
そして、この3曲の前に、武満徹の最初期のヴァイオリンとピアノのための小品「妖精の距離」と、「彼がその曲の作曲に当たって着想を得た」という瀧口修造の詩「妖精の距離」の朗読(大竹直)が置かれていた。
詩の朗読から武満徹の作品の演奏へ移り変わる雰囲気もなかなかよく、更にその「妖精の距離」の音楽に滲むフランス風の曲想が、次のドビュッシーのソナタへの流れの中にぴたりと決まる。
庄司紗矢香としては珍しい(私が聴いていなかっただけかもしれないが)フランスものの演奏が実に美しく、グローヴナーのピアノもドビュッシーの清楚な雰囲気を再現して、このあたり、快い陶酔に誘われた。
次のモディリアーニ弦楽四重奏団のラヴェルもよかったが、やはり何と言っても、全員の協演で熱演が繰り広げられたショーソンの長大な協奏曲こそは、今夜の白眉であったろう。
もともとナマではめったに聴ける機会のない作品だが、最初から最後までいささかの緩みもない濃密な構築と、瑞々しさと、美しさに満ちた今夜の演奏を聴いて、この曲の魅力を改めてじっくりと味わうことができた。モディリアーニ四重奏団が響かせるトレモロの素晴らしい力感。その上に屹立して音楽をリードして行く庄司紗矢香のヴァイオリン・ソロは雄弁で、ひときわ映えていた。
この曲で、これほどスリリングな演奏を聴いたことはかつてなかった、という気がする。
ヴァイオリンの庄司紗矢香を中心に、ピアノのベンジャミン・グローヴナー、それにモディリアーニ弦楽四重奏団が顔を揃えたステージ。
ドビュッシーの「ヴァイオリン・ソナタ」、ラヴェルの「弦楽四重奏曲」、ショーソンの「ヴァイオリン、ピアノと弦楽四重奏のための協奏曲」という素晴らしいプログラム。
そして、この3曲の前に、武満徹の最初期のヴァイオリンとピアノのための小品「妖精の距離」と、「彼がその曲の作曲に当たって着想を得た」という瀧口修造の詩「妖精の距離」の朗読(大竹直)が置かれていた。
詩の朗読から武満徹の作品の演奏へ移り変わる雰囲気もなかなかよく、更にその「妖精の距離」の音楽に滲むフランス風の曲想が、次のドビュッシーのソナタへの流れの中にぴたりと決まる。
庄司紗矢香としては珍しい(私が聴いていなかっただけかもしれないが)フランスものの演奏が実に美しく、グローヴナーのピアノもドビュッシーの清楚な雰囲気を再現して、このあたり、快い陶酔に誘われた。
次のモディリアーニ弦楽四重奏団のラヴェルもよかったが、やはり何と言っても、全員の協演で熱演が繰り広げられたショーソンの長大な協奏曲こそは、今夜の白眉であったろう。
もともとナマではめったに聴ける機会のない作品だが、最初から最後までいささかの緩みもない濃密な構築と、瑞々しさと、美しさに満ちた今夜の演奏を聴いて、この曲の魅力を改めてじっくりと味わうことができた。モディリアーニ四重奏団が響かせるトレモロの素晴らしい力感。その上に屹立して音楽をリードして行く庄司紗矢香のヴァイオリン・ソロは雄弁で、ひときわ映えていた。
この曲で、これほどスリリングな演奏を聴いたことはかつてなかった、という気がする。
2023・9・24(日)沖澤のどか指揮京都市交響楽団東京公演
サントリーホール 2時
前日の京都定期公演と同一プログラムで、ベートーヴェンの「交響曲第4番」と、フランスの現代作曲家ギョーム・コネソン(b1970)の「管弦楽のための《コスミック・トリロジー》」が演奏された。
指揮は、今年4月に第14代常任指揮者に就任した注目の若手、沖澤のどか。コンサートマスターは石田泰尚。
2曲とも、天馬空を行く感の小気味よい沖澤のどかの指揮で、楽曲構築のバランスの良さといい、オーケストラ制御の鮮やかさといい、舌を巻かされるほどの演奏となった。特にベートーヴェンの「4番」では、何の外連もない率直な音楽づくりだったが、それが決して素っ気ないものにならず、見事な推進性に富み、快さを感じさせるものになっていたのが印象的である。
なお細かいことだが、「4番」の第1楽章の提示部の終り、1番カッコの2小節前の、普通はカットされるチェロとコントラバスによる4分音符のへ音が、珍しくスコア通り弾かれていたような気がしたが‥‥微かに聞こえたような気がしただけなので聞き違いかもしれないが、もし本当に演奏されていたのだったら、最近では珍しい例になろう。原典総譜に対する沖澤のどかの姿勢を知る上でも興味深いことである。
「コスミック・トリロジー」は、昨日の京都公演での演奏が「日本初演」に当たっていた由。「アレフ」(2007、2009改訂)、「暗黒時代の一条の光」(2005)、「スーパーノヴァ」(1997、2006改訂)の3部分からなる。
たとえばステファヌ・ドゥネーヴの指揮したCD(CHANDOS CHSA5076)ではこの順番で演奏されているが、今日の沖澤&京響の公演では、「スーパーノヴァ」「暗黒時代の一条の光」「アレフ」というように、作曲年代による順番で演奏された。聴いた感じでは、全曲の流れという点で、今回の配列の方が自然なものに思える。
作曲スタイルとしては比較的保守的なものに属するような気がするが、大編成の管弦楽を駆使して、打楽器群にも特徴があり、すこぶる多彩な音色に富んだ作品だといえようか。
沖澤と京響の演奏は明快そのもので、私の印象では、ドゥネーヴの指揮するCDで聴いた時よりも、遥かに作品に活気が感じられた。
日本の若い指揮者がこのような現代作曲家の大作を手がけ、鮮やかな指揮で日本初演したというケースでは、遡る61年前、若き小澤征爾がN響を指揮してメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」を日本初演した快挙に匹敵するだろう。
聴衆だけでなく、オーケストラの楽員がこの若い女性常任指揮者に向ける拍手も盛んであった(カーテンコールにおける京響の楽員たちの聴衆に向ける笑顔もいつもながら快い)。彼女の今後の活動に祝福がありますよう。
前日の京都定期公演と同一プログラムで、ベートーヴェンの「交響曲第4番」と、フランスの現代作曲家ギョーム・コネソン(b1970)の「管弦楽のための《コスミック・トリロジー》」が演奏された。
指揮は、今年4月に第14代常任指揮者に就任した注目の若手、沖澤のどか。コンサートマスターは石田泰尚。
2曲とも、天馬空を行く感の小気味よい沖澤のどかの指揮で、楽曲構築のバランスの良さといい、オーケストラ制御の鮮やかさといい、舌を巻かされるほどの演奏となった。特にベートーヴェンの「4番」では、何の外連もない率直な音楽づくりだったが、それが決して素っ気ないものにならず、見事な推進性に富み、快さを感じさせるものになっていたのが印象的である。
なお細かいことだが、「4番」の第1楽章の提示部の終り、1番カッコの2小節前の、普通はカットされるチェロとコントラバスによる4分音符のへ音が、珍しくスコア通り弾かれていたような気がしたが‥‥微かに聞こえたような気がしただけなので聞き違いかもしれないが、もし本当に演奏されていたのだったら、最近では珍しい例になろう。原典総譜に対する沖澤のどかの姿勢を知る上でも興味深いことである。
「コスミック・トリロジー」は、昨日の京都公演での演奏が「日本初演」に当たっていた由。「アレフ」(2007、2009改訂)、「暗黒時代の一条の光」(2005)、「スーパーノヴァ」(1997、2006改訂)の3部分からなる。
たとえばステファヌ・ドゥネーヴの指揮したCD(CHANDOS CHSA5076)ではこの順番で演奏されているが、今日の沖澤&京響の公演では、「スーパーノヴァ」「暗黒時代の一条の光」「アレフ」というように、作曲年代による順番で演奏された。聴いた感じでは、全曲の流れという点で、今回の配列の方が自然なものに思える。
作曲スタイルとしては比較的保守的なものに属するような気がするが、大編成の管弦楽を駆使して、打楽器群にも特徴があり、すこぶる多彩な音色に富んだ作品だといえようか。
沖澤と京響の演奏は明快そのもので、私の印象では、ドゥネーヴの指揮するCDで聴いた時よりも、遥かに作品に活気が感じられた。
日本の若い指揮者がこのような現代作曲家の大作を手がけ、鮮やかな指揮で日本初演したというケースでは、遡る61年前、若き小澤征爾がN響を指揮してメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」を日本初演した快挙に匹敵するだろう。
聴衆だけでなく、オーケストラの楽員がこの若い女性常任指揮者に向ける拍手も盛んであった(カーテンコールにおける京響の楽員たちの聴衆に向ける笑顔もいつもながら快い)。彼女の今後の活動に祝福がありますよう。
2023・9・23(土)ロレンツォ・ヴィオッティ指揮東京交響楽団
~2つの「英雄」~
サントリーホール 6時
前半にベートーヴェンの「英雄交響曲」、後半にR・シュトラウスの「英雄の生涯」。
戦艦が2隻揃ってやって来たような重量感たっぷりのプログラムだが、ヴィオッティの速めのテンポが小気味よい迫力を生み出していて、これは大いに楽しめた。単なるタイトルの語呂合わせではなく、同じ変ホ長調で描き出されたとも言える「英雄」として、意味のある組み合わせの選曲と言えるだろう。
ヴィオッティの指揮する今日のベートーヴェンの「英雄」は、第1楽章こそ細部に拘泥せず、勢いに乗って進めて行くような趣になっていたが、第2楽章のミノーレが再現したあたりから演奏は俄然ニュアンスの細やかさを感じさせるようになり、音楽全体が柔軟に息づき、多様な起伏を感じさせるようになった。
ヴィオッティの音づくりが所謂カチッとしたものではなく、ある程度の自由さを持たせたアンサンブルなので、響きと音色に空間的な拡がりを生じさせる。それが音楽をしなやかなものに感じさせる一因だろう。
聞けば、今回はリハーサルの時間が少なかったらしいが(彼の乗った飛行機にトラブルがあった関係とか)、それがむしろいい効果を生んでいたのかもしれない。
いっぽう「英雄の生涯」では、ヴィオッティは長い総休止の多用や、「英雄の主題」再現の際のテンポの大きな矯めなど、かつてのティーレマンほどではないにしても随所に大芝居的な仕掛けを導入し、凝ったところを聴かせていた。
笑いを誘われたのは「英雄の伴侶」のくだりで、コンサートマスターのグレブ・ニキティンが弾いて描き出す「伴侶」は、最初は手弱女の如くながら、間もなくヒステリックな猛妻となり、ついにはオーケストラの「英雄」が癇癪を起しかけるといった情景をまざまざと想像させていた。R・シュトラウスの自伝の音楽としては、当を得た解釈と言うべきか。
とはいえ今日の2曲の演奏、どちらかといえば、ベートーヴェンの「英雄交響曲」の演奏の方がまとまりは良かったと思えたのだが如何。東京響の各パートは極めて冴えていた。
前半にベートーヴェンの「英雄交響曲」、後半にR・シュトラウスの「英雄の生涯」。
戦艦が2隻揃ってやって来たような重量感たっぷりのプログラムだが、ヴィオッティの速めのテンポが小気味よい迫力を生み出していて、これは大いに楽しめた。単なるタイトルの語呂合わせではなく、同じ変ホ長調で描き出されたとも言える「英雄」として、意味のある組み合わせの選曲と言えるだろう。
ヴィオッティの指揮する今日のベートーヴェンの「英雄」は、第1楽章こそ細部に拘泥せず、勢いに乗って進めて行くような趣になっていたが、第2楽章のミノーレが再現したあたりから演奏は俄然ニュアンスの細やかさを感じさせるようになり、音楽全体が柔軟に息づき、多様な起伏を感じさせるようになった。
ヴィオッティの音づくりが所謂カチッとしたものではなく、ある程度の自由さを持たせたアンサンブルなので、響きと音色に空間的な拡がりを生じさせる。それが音楽をしなやかなものに感じさせる一因だろう。
聞けば、今回はリハーサルの時間が少なかったらしいが(彼の乗った飛行機にトラブルがあった関係とか)、それがむしろいい効果を生んでいたのかもしれない。
いっぽう「英雄の生涯」では、ヴィオッティは長い総休止の多用や、「英雄の主題」再現の際のテンポの大きな矯めなど、かつてのティーレマンほどではないにしても随所に大芝居的な仕掛けを導入し、凝ったところを聴かせていた。
笑いを誘われたのは「英雄の伴侶」のくだりで、コンサートマスターのグレブ・ニキティンが弾いて描き出す「伴侶」は、最初は手弱女の如くながら、間もなくヒステリックな猛妻となり、ついにはオーケストラの「英雄」が癇癪を起しかけるといった情景をまざまざと想像させていた。R・シュトラウスの自伝の音楽としては、当を得た解釈と言うべきか。
とはいえ今日の2曲の演奏、どちらかといえば、ベートーヴェンの「英雄交響曲」の演奏の方がまとまりは良かったと思えたのだが如何。東京響の各パートは極めて冴えていた。
2023・9・23(土)トレヴァー・ピノック指揮紀尾井ホール室内管弦楽団
紀尾井ホール 2時
首席指揮者トレヴァー・ピノックとの紀尾井ホール室内管弦楽団(KCO)9月定期。
今回はメンデルスゾーン・プログラムで、オラトリオ「聖パウロ」序曲、「詩篇第42番《鹿が谷の水を慕うが如く》」、後半に「交響曲第2番《讃歌》」という珍しい選曲である。
協演の声楽陣は新国立劇場合唱団、ラゥリーナ・ベンジューナイテ(S)、マウロ・ペーター(T)、湯川亜也子(S)。コンサートマスターはアントン・バラホフスキー。
「第2交響曲《讃歌》」は、不思議にこのところ、東京のコンサートで聴く機会が多い。私も今年、5月に沼尻竜典と新日本フィルが、8月に鈴木優人と東京響が演奏したのを聴いている。いずれもいい演奏だったけれども、トレヴァー・ピノックが指揮した今日のそれは、音楽全体における隙のない緊迫感という点で、際立った特徴を示しているだろう。
祈りの音楽がとどまることなく陶酔的に盛り上がって行く演奏は、キリスト教徒ではない私にさえ、感情の昂揚をもたらしてくれる。もともとあまり好きではないこの曲なのだが、今日ほどドラマティックな性格を感じて驚嘆させられたことは、これまでになかった。
ピノックがメンデルスゾーンの宗教曲系作品でこんな大技を示す人だったとは、実のところ今初めて認識した次第で、それだけに喜びも大きい。
2人のソプラノの好演も印象的で、特にベンジューナイテの輝かしく気持の良い純な声が素晴らしい。彼女は「詩篇第42番」でも嘆きの感情を見事に歌い上げていた。
首席指揮者トレヴァー・ピノックとの紀尾井ホール室内管弦楽団(KCO)9月定期。
今回はメンデルスゾーン・プログラムで、オラトリオ「聖パウロ」序曲、「詩篇第42番《鹿が谷の水を慕うが如く》」、後半に「交響曲第2番《讃歌》」という珍しい選曲である。
協演の声楽陣は新国立劇場合唱団、ラゥリーナ・ベンジューナイテ(S)、マウロ・ペーター(T)、湯川亜也子(S)。コンサートマスターはアントン・バラホフスキー。
「第2交響曲《讃歌》」は、不思議にこのところ、東京のコンサートで聴く機会が多い。私も今年、5月に沼尻竜典と新日本フィルが、8月に鈴木優人と東京響が演奏したのを聴いている。いずれもいい演奏だったけれども、トレヴァー・ピノックが指揮した今日のそれは、音楽全体における隙のない緊迫感という点で、際立った特徴を示しているだろう。
祈りの音楽がとどまることなく陶酔的に盛り上がって行く演奏は、キリスト教徒ではない私にさえ、感情の昂揚をもたらしてくれる。もともとあまり好きではないこの曲なのだが、今日ほどドラマティックな性格を感じて驚嘆させられたことは、これまでになかった。
ピノックがメンデルスゾーンの宗教曲系作品でこんな大技を示す人だったとは、実のところ今初めて認識した次第で、それだけに喜びも大きい。
2人のソプラノの好演も印象的で、特にベンジューナイテの輝かしく気持の良い純な声が素晴らしい。彼女は「詩篇第42番」でも嘆きの感情を見事に歌い上げていた。
2023・9・21(木)ミハイル・プレトニョフ
ラフマニノフのピアノ協奏曲全曲演奏会 第2夜
東京オペラシティ コンサートホール 7時
第2夜は、ピアノ協奏曲の「第3番」と「第4番」、それに「パガニーニの主題による狂詩曲」まで加えるという豪華なプログラム。休憩は「第3番」のあとに1回おかれただけ。協演は高関健が指揮する東京フィルハーモニー交響楽団。
プレトニョフの弾く「3番」と言えば、もうかなり前のことになるが、彼が全曲冒頭の第1主題を、スコアの指定通りのスラー付きの弱音でありながら、静かに叩きつけるような音で弾きはじめた時に受けた強烈な印象が今でも忘れられない。
特に最初のニ音が、弱音のまま、非常に鋭いアクセントを伴って響きはじめた瞬間の衝撃たるや、並みのものではなかった。プレトニョフの満々たる強靭な意志力が、この弱音の第1主題全体に漲っていたのが感じられたのである。そして、この「3番」全体がなにか巨大なものが沸騰するような、恐るべき力で満たされていたのだった。
だからといって、今回、それと全く同じ演奏を期待していたわけではないけれども━━しかし、今日の演奏は、その燃焼度がどうも違い過ぎる。
第1主題は、昔と同じように粒立った弾き方ではあったものの、なにか乾いた、素っ気ない音楽となってしまっていて、結局は全曲を通じてその印象が拭い切れないままになった。当時の彼が使用していたピアノと、近年使用しているピアノとの音色の違いもあろうかとは思うが、どうもそれだけではないような気がする。
第3楽章のエンディングにさえ、オーケストラを含めて自然な昂揚感はあまり感じられず、不思議なほど散漫な終結となってしまっていた。オーケストラも音が薄くて粗っぽいところがあり、ソリストとの呼吸もなにかあまり一致していなかったのは、リハーサル不足だったのか?
「3番」が終ったあとの休憩時間にロビーで顔を合わせた同業者に「何だか面白くないなあ」と愚痴をこぼしたら、彼も首をひねって「なんかおかしいよね。初日(1番、2番)は凄かったんだけどなあ」と呟いていた。
「第4番」は、曲が曲だから、「3番」の出来をカバーするほどの演奏にはなり得ないだろう。ただ、救われたのは、最後の「ラプソディ」における演奏だったろうか。ここではプレトニョフにもオーケストラにも、寛いだ表情が聴かれた。例の有名な第18変奏の個所で、プレトニョフが突然「ここだけでも思い出に浸ろう」とでも言うかのように、たっぷりとしたカンタービレを聴かせていたのは意外であった。
第2夜は、ピアノ協奏曲の「第3番」と「第4番」、それに「パガニーニの主題による狂詩曲」まで加えるという豪華なプログラム。休憩は「第3番」のあとに1回おかれただけ。協演は高関健が指揮する東京フィルハーモニー交響楽団。
プレトニョフの弾く「3番」と言えば、もうかなり前のことになるが、彼が全曲冒頭の第1主題を、スコアの指定通りのスラー付きの弱音でありながら、静かに叩きつけるような音で弾きはじめた時に受けた強烈な印象が今でも忘れられない。
特に最初のニ音が、弱音のまま、非常に鋭いアクセントを伴って響きはじめた瞬間の衝撃たるや、並みのものではなかった。プレトニョフの満々たる強靭な意志力が、この弱音の第1主題全体に漲っていたのが感じられたのである。そして、この「3番」全体がなにか巨大なものが沸騰するような、恐るべき力で満たされていたのだった。
だからといって、今回、それと全く同じ演奏を期待していたわけではないけれども━━しかし、今日の演奏は、その燃焼度がどうも違い過ぎる。
第1主題は、昔と同じように粒立った弾き方ではあったものの、なにか乾いた、素っ気ない音楽となってしまっていて、結局は全曲を通じてその印象が拭い切れないままになった。当時の彼が使用していたピアノと、近年使用しているピアノとの音色の違いもあろうかとは思うが、どうもそれだけではないような気がする。
第3楽章のエンディングにさえ、オーケストラを含めて自然な昂揚感はあまり感じられず、不思議なほど散漫な終結となってしまっていた。オーケストラも音が薄くて粗っぽいところがあり、ソリストとの呼吸もなにかあまり一致していなかったのは、リハーサル不足だったのか?
「3番」が終ったあとの休憩時間にロビーで顔を合わせた同業者に「何だか面白くないなあ」と愚痴をこぼしたら、彼も首をひねって「なんかおかしいよね。初日(1番、2番)は凄かったんだけどなあ」と呟いていた。
「第4番」は、曲が曲だから、「3番」の出来をカバーするほどの演奏にはなり得ないだろう。ただ、救われたのは、最後の「ラプソディ」における演奏だったろうか。ここではプレトニョフにもオーケストラにも、寛いだ表情が聴かれた。例の有名な第18変奏の個所で、プレトニョフが突然「ここだけでも思い出に浸ろう」とでも言うかのように、たっぷりとしたカンタービレを聴かせていたのは意外であった。
2023・9・19(火)ハインツ・ホリガー オーボエ・リサイタル
東京文化会館小ホール 7時
ホリガーは1939年生まれだから、今年84歳である。
だが彼もまた矍鑠として、椅子も使わず、全ステージを務め上げる。冒頭の1ヵ所か2ヵ所、音のふらつきはあったものの、それ以外では完璧なほどの安定感、驚くべき集中力が演奏を満たす。その音楽に湛えられた豊かな情感と深みは、驚異的というほかはない。渋いプログラムながらホールは満席。
ピアノはアントン・ケルニャック。
プログラムは、フランス音楽とホリガー自身の作品とを組み合わせたもの。
まずラヴェルの「ハバネラ形式の小品」と「カディッシュ」、メシアンの「ヴォカリーズ・エチュード」と「初見視奏曲」が演奏され、ホリガー自身の作「ライフライン」「コン・ズランチョ」(休憩)「オーボエとピアノのためのソナタ」「ピアノのためのソナチネ」が続き、後半にジョリヴェの「オリノコ川の丸木舟を操る人の歌」、サン=サーンスの「うぐいす」、ラヴェルの「ソナチネ」(オーボエとピアノ版)が演奏された。
このうち、「ライフライン」と「ソナチネ」はピアノ・ソロによる作品である。
だがホリガーは、更にその上にアンコールとして、ブーランジェの「ノクテュルヌ」、ドビュッシーの「クラリネットのための小品」、ミヨーの「ヴォカリーズ・エチュード《エール》」を演奏するという凄いエネルギーであった。
終演は9時10分頃になったが、さらにそのあと、CD購入者を対象にサイン会(これは終りまでは見なかったが、とにかくロビーは長蛇の列だった)をやったのだから、84歳のホリガーの元気さたるや、恐るべきものだ。
ホリガーは1939年生まれだから、今年84歳である。
だが彼もまた矍鑠として、椅子も使わず、全ステージを務め上げる。冒頭の1ヵ所か2ヵ所、音のふらつきはあったものの、それ以外では完璧なほどの安定感、驚くべき集中力が演奏を満たす。その音楽に湛えられた豊かな情感と深みは、驚異的というほかはない。渋いプログラムながらホールは満席。
ピアノはアントン・ケルニャック。
プログラムは、フランス音楽とホリガー自身の作品とを組み合わせたもの。
まずラヴェルの「ハバネラ形式の小品」と「カディッシュ」、メシアンの「ヴォカリーズ・エチュード」と「初見視奏曲」が演奏され、ホリガー自身の作「ライフライン」「コン・ズランチョ」(休憩)「オーボエとピアノのためのソナタ」「ピアノのためのソナチネ」が続き、後半にジョリヴェの「オリノコ川の丸木舟を操る人の歌」、サン=サーンスの「うぐいす」、ラヴェルの「ソナチネ」(オーボエとピアノ版)が演奏された。
このうち、「ライフライン」と「ソナチネ」はピアノ・ソロによる作品である。
だがホリガーは、更にその上にアンコールとして、ブーランジェの「ノクテュルヌ」、ドビュッシーの「クラリネットのための小品」、ミヨーの「ヴォカリーズ・エチュード《エール》」を演奏するという凄いエネルギーであった。
終演は9時10分頃になったが、さらにそのあと、CD購入者を対象にサイン会(これは終りまでは見なかったが、とにかくロビーは長蛇の列だった)をやったのだから、84歳のホリガーの元気さたるや、恐るべきものだ。
2023・9・18(月)ローレンス・レネス指揮東京都交響楽団
サントリーホール 2時
オランダ系の指揮者レネス(53歳の由)が都響へ3度目の客演。
前半にモーツァルトの「クラリネット協奏曲」をヴィオラ協奏曲に編曲した版がタベア・ツインマーマンをソリストに迎えて演奏され、後半には、レネス自身が抜粋構成したプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」が演奏された。
コンサートマスターは矢部達哉。
ヴィオラ協奏曲版は、だれの編曲かは不詳とのこと。私は初めて聴く機会を得たので期待していたのだが、どうも冴えない━━というのは、やはり楽器の音域、音色、パートの動きなどが、クラリネット・ソロで演奏される場合と異なり、オーケストラに対して際立つ効果が低いからではないかと思われる。もともとヴィオラ協奏曲として作曲されていない場合の管弦楽法との違いは、如何ともし難いのではないか。
タベア・ツィンマーマンがインタヴューで自慢していた新しい楽器も、このコンチェルトでは、あまり真価を発揮できずに終ったようである。むしろアンコールで弾いたクルタークの無伴奏曲「イン・ノミネ」が、その新しいヴィオラの特色を━━これは実に凄味があった━━発揮していた。
プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は、一般に知られている如何なる組曲とも異なる、レネス独自の構成・配列によるもの。
このレネスという人は、私は6年前にN響の「MUSIC TOMORROW」(☞2017年6月9日)でしか聴いたことがなかったのだが、やはりいい指揮者だと思う。彼の指揮のもと、今日の都響は厚みと膨らみと奥行感に富んだ響きを聴かせ、このバレエ曲を、色彩感というよりはむしろ陰影豊かな音楽として再現してくれた。
オランダ系の指揮者レネス(53歳の由)が都響へ3度目の客演。
前半にモーツァルトの「クラリネット協奏曲」をヴィオラ協奏曲に編曲した版がタベア・ツインマーマンをソリストに迎えて演奏され、後半には、レネス自身が抜粋構成したプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」が演奏された。
コンサートマスターは矢部達哉。
ヴィオラ協奏曲版は、だれの編曲かは不詳とのこと。私は初めて聴く機会を得たので期待していたのだが、どうも冴えない━━というのは、やはり楽器の音域、音色、パートの動きなどが、クラリネット・ソロで演奏される場合と異なり、オーケストラに対して際立つ効果が低いからではないかと思われる。もともとヴィオラ協奏曲として作曲されていない場合の管弦楽法との違いは、如何ともし難いのではないか。
タベア・ツィンマーマンがインタヴューで自慢していた新しい楽器も、このコンチェルトでは、あまり真価を発揮できずに終ったようである。むしろアンコールで弾いたクルタークの無伴奏曲「イン・ノミネ」が、その新しいヴィオラの特色を━━これは実に凄味があった━━発揮していた。
プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は、一般に知られている如何なる組曲とも異なる、レネス独自の構成・配列によるもの。
このレネスという人は、私は6年前にN響の「MUSIC TOMORROW」(☞2017年6月9日)でしか聴いたことがなかったのだが、やはりいい指揮者だと思う。彼の指揮のもと、今日の都響は厚みと膨らみと奥行感に富んだ響きを聴かせ、このバレエ曲を、色彩感というよりはむしろ陰影豊かな音楽として再現してくれた。
2023・9・17(日)びわ湖ホール開館25周年記念オペラ ガラ・コンサート
滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 2時
今春に第3代芸術監督に就任した阪哲朗のもとでのオペラ・シーズン始動。来年3月までの最初のシーズンに、彼は「フィガロの結婚」「こうもり」「ばらの騎士」(いずれも舞台上演)を指揮することになっている。
今日はまず彼の指揮による「ガラ・コンサート」だ。
ワーグナーの「タンホイザー」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、ヴェルディの「椿姫」「リゴレット」「運命の力」「ドン・カルロ」、J・シュトラウスⅡの「こうもり」、コルンゴルトの「死の都」、モーツァルトの「フィガロの結婚」、R・シュトラウスの「ばらの騎士」からのアリアや重唱、合唱、組曲抜粋などが演奏された。
出演は、青山貴(ジェルモン、ザックス、フリッツ、ファーニナル)、宮里直樹(マントヴァ公爵、ドン・カルロ、テノール歌手)、船越亜弥(レオノーラ)、市川敏雄(ロドリーゴ、「死の都」のフランク)、藤木大地(オルロフスキー公爵、ケルビーノ、オクタヴィアン)、石橋栄実(マリエッタ、スザンナ、ゾフィー)、山本康寛(パウル)、澤畑恵美(アルマヴィーヴァ伯爵夫人、元帥夫人)。京都市交響楽団、びわ湖ホール声楽アンサンブル。
歌手陣がみんな腕に縒りをかけて(?)歌唱を競っていたのは言うまでもない。それだけでも聴き応え充分だったが、ここでは阪哲朗の指揮の巧さを挙げておきたい。
「こうもり」や「ばらの騎士」で、京都市響から引き出した柔らかい官能的な和声の美しさ、「運命の力」の「神よ平和を与えたまえ」で木管の和声に滲ませた不安に満ちた音色など、さすがドイツの歌劇場で長年にわたり仕事を続けて来た彼ならではのものがあり、びわ湖ホールの新しいオペラ路線に大きな期待を抱かせる。
さしあたり来年3月の「ばらの騎士」(2日、3日)は、なかなか日本では発揮される機会のなかった阪哲朗の真価が今度こそ示される公演になるだろうと思う。
なお、「ばらの騎士」の終り近く、ゾフィーとオクタヴィアンとが簡単に結びつくさまを見た彼女の父親ファーニナルが「若い人はこういうものなのかね」と嘆息し、若いオクタヴィアンへの想いを断ち切った元帥夫人が「ja,ja」と寂しく呟く感動的な場面がある。今日はステージの構成・演出を中村敬一が担当していたが、その場面でファーニナルがその言葉を娘に向かって言う設定にしていたのは、前後のストーリーの流れから考えると、これはやはり不自然なのではなかろうか。彼は来年の「ばらの騎士」の演出家でもあるが━━。
ガラ・コンサートは、ソロ歌手全員と合唱団が歌うウィンナ・オペレッタ「こうもり」からの「シャンパンの歌」で華やかに締められた。イタリア・オペラ「椿姫」の「乾杯の歌」でなかったところが阪哲朗らしくて、いい。
今春に第3代芸術監督に就任した阪哲朗のもとでのオペラ・シーズン始動。来年3月までの最初のシーズンに、彼は「フィガロの結婚」「こうもり」「ばらの騎士」(いずれも舞台上演)を指揮することになっている。
今日はまず彼の指揮による「ガラ・コンサート」だ。
ワーグナーの「タンホイザー」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、ヴェルディの「椿姫」「リゴレット」「運命の力」「ドン・カルロ」、J・シュトラウスⅡの「こうもり」、コルンゴルトの「死の都」、モーツァルトの「フィガロの結婚」、R・シュトラウスの「ばらの騎士」からのアリアや重唱、合唱、組曲抜粋などが演奏された。
出演は、青山貴(ジェルモン、ザックス、フリッツ、ファーニナル)、宮里直樹(マントヴァ公爵、ドン・カルロ、テノール歌手)、船越亜弥(レオノーラ)、市川敏雄(ロドリーゴ、「死の都」のフランク)、藤木大地(オルロフスキー公爵、ケルビーノ、オクタヴィアン)、石橋栄実(マリエッタ、スザンナ、ゾフィー)、山本康寛(パウル)、澤畑恵美(アルマヴィーヴァ伯爵夫人、元帥夫人)。京都市交響楽団、びわ湖ホール声楽アンサンブル。
歌手陣がみんな腕に縒りをかけて(?)歌唱を競っていたのは言うまでもない。それだけでも聴き応え充分だったが、ここでは阪哲朗の指揮の巧さを挙げておきたい。
「こうもり」や「ばらの騎士」で、京都市響から引き出した柔らかい官能的な和声の美しさ、「運命の力」の「神よ平和を与えたまえ」で木管の和声に滲ませた不安に満ちた音色など、さすがドイツの歌劇場で長年にわたり仕事を続けて来た彼ならではのものがあり、びわ湖ホールの新しいオペラ路線に大きな期待を抱かせる。
さしあたり来年3月の「ばらの騎士」(2日、3日)は、なかなか日本では発揮される機会のなかった阪哲朗の真価が今度こそ示される公演になるだろうと思う。
なお、「ばらの騎士」の終り近く、ゾフィーとオクタヴィアンとが簡単に結びつくさまを見た彼女の父親ファーニナルが「若い人はこういうものなのかね」と嘆息し、若いオクタヴィアンへの想いを断ち切った元帥夫人が「ja,ja」と寂しく呟く感動的な場面がある。今日はステージの構成・演出を中村敬一が担当していたが、その場面でファーニナルがその言葉を娘に向かって言う設定にしていたのは、前後のストーリーの流れから考えると、これはやはり不自然なのではなかろうか。彼は来年の「ばらの騎士」の演出家でもあるが━━。
ガラ・コンサートは、ソロ歌手全員と合唱団が歌うウィンナ・オペレッタ「こうもり」からの「シャンパンの歌」で華やかに締められた。イタリア・オペラ「椿姫」の「乾杯の歌」でなかったところが阪哲朗らしくて、いい。
2023・9・16(土)マリオ・ヴェンツァーゴ指揮読売日本交響楽団
東京芸術劇場コンサートホール 2時
先日のは9月定期だったが、今日のは「土曜マチネーシリーズ」。昼間のコンサートは客の入りがいい。
今日のプログラムは、オネゲルの「交響的運動第1番《パシフィック231》」と「同第2番《ラグビー》」、バルトークの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストはヴェロニカ・エーベルレ)、ベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」。コンサートマスターは長原幸太。
オネゲルの2曲をナマで聴くのは久しぶりだ。「パシフィック231」は、なかなか全速力に達しない機関車という雰囲気の演奏だったけれども、制動のかかる寸前に達した暴走機関車的なオーケストラの咆哮はなかなかのもの。
半世紀以上も前、NHKのラジオ番組でだれかが「パリで聴いた時には、なんて物凄い曲か、と思いましたよ」と語っていたのが妙に強く記憶に残っているのだが━━前述の僅かな瞬間に閃いた音響の力感がそれを思いださせてくれた。
しかし、この曲に比べると、「ラグビー」という曲は‥‥やはり二番煎じの感を免れまい。
エーベルレの弾くバルトークの協奏曲と、彼女がソロ・アンコールで弾いたニコラ・マッティスの「アリア・ファンタジア」を不思議なほど快く味わった後、ベートーヴェンの「5番」を楽しみにしていたが、先日のブルックナーの「4番」の時に比べると、期待したほどユニークな演奏ではなかったようだ。
第1楽章では、8分音符をすべてテヌート(長さを充分に保って)気味に演奏させていたのが、現代流行りのスタイルとは正反対の音楽になっていて、これはこれで面白かったが━━あの有名な主題の中のフェルマータの最後をすべてフェイドアウト(漸弱)にするのは(そういう指揮者もたまにいるが)どうも気持が悪い。
先日のは9月定期だったが、今日のは「土曜マチネーシリーズ」。昼間のコンサートは客の入りがいい。
今日のプログラムは、オネゲルの「交響的運動第1番《パシフィック231》」と「同第2番《ラグビー》」、バルトークの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストはヴェロニカ・エーベルレ)、ベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」。コンサートマスターは長原幸太。
オネゲルの2曲をナマで聴くのは久しぶりだ。「パシフィック231」は、なかなか全速力に達しない機関車という雰囲気の演奏だったけれども、制動のかかる寸前に達した暴走機関車的なオーケストラの咆哮はなかなかのもの。
半世紀以上も前、NHKのラジオ番組でだれかが「パリで聴いた時には、なんて物凄い曲か、と思いましたよ」と語っていたのが妙に強く記憶に残っているのだが━━前述の僅かな瞬間に閃いた音響の力感がそれを思いださせてくれた。
しかし、この曲に比べると、「ラグビー」という曲は‥‥やはり二番煎じの感を免れまい。
エーベルレの弾くバルトークの協奏曲と、彼女がソロ・アンコールで弾いたニコラ・マッティスの「アリア・ファンタジア」を不思議なほど快く味わった後、ベートーヴェンの「5番」を楽しみにしていたが、先日のブルックナーの「4番」の時に比べると、期待したほどユニークな演奏ではなかったようだ。
第1楽章では、8分音符をすべてテヌート(長さを充分に保って)気味に演奏させていたのが、現代流行りのスタイルとは正反対の音楽になっていて、これはこれで面白かったが━━あの有名な主題の中のフェルマータの最後をすべてフェイドアウト(漸弱)にするのは(そういう指揮者もたまにいるが)どうも気持が悪い。
2023・9・15(金)池辺晋一郎80歳バースデー・コンサート
東京オペラシティ コンサートホール 7時
池辺晋一郎の傘寿を祝う演奏会で、彼の作品によるプログラムが組まれた。
「相聞Ⅰ」と「相聞Ⅱ」(1970)、「相聞Ⅲ」(2005)、オペラ「死神」(1971)から「死神のアリア」(1978追加)、オペラ「高野聖」(2011)から「夫婦滝」と「白桃の花」、「ピアノ協奏曲Ⅰ」(1967)、「シンフォニーⅪ(交響曲第11番)《影を薄くする忘却》」(2023、世界初演)。
演奏には、広上淳一の指揮のもと、オーケストラ・アンサンブル金沢、東京混声合唱団、古瀬まきを(S)、中鉢聡(T)、北村朋幹(pf)が参加した。主催は東京オペラシティ文化財団。
若い時期の作品から最新作までを組み合わせたプログラミングは、池辺晋一郎の作風の変遷、もしくは多様性を窺い知るために、大変興味深い。
例えば「相聞」の3曲のように、最初の2曲と最後の1曲の作曲時期の間に35年もの開きがある場合、若い頃の作品の方が所謂「現代音楽っぽい」気負った作風が示されるのに対し、円熟期に入った3曲目では、穏やかな叙情美が優先されているのが判る。
もっともそうは言っても、1971年のオペラ「死神」では、決して尖った作風になっていないところなどからすると、やはり彼は初期の頃からそれぞれの性格に応じた「使い分け」の巧い人だったのだろう。
思いだしたが、比較的最近の何かの記事に、彼が「僕はいわゆるゲンダイオンガク的な手法は採りたくない」とかいったような━━正確な引用ではないかもしれないが━━ことをコメントしていたような記憶もあるのだが‥‥。
最後に演奏された第11番の交響曲は、東京オペラシティ文化財団と、オーケストラ・アンサンブル金沢からの委嘱の由。「第10番」と同じように、優しさの中にも翳りの濃い、一抹の不安感をも滲ませた曲想も印象に残る。もしかしたら、シンフォニーにおいて、池辺晋一郎の作風が一種のジュンテーゼ(綜合)の域に達したことが示されているのだろうか、という気がしないでもない。
なお、オペラはもちろん日本語の歌詞だが、中鉢聡の明快な歌詞の発音がオペラの内容を如実に伝えてくれた一方、古瀬まきを(若い妖艶な死神役)のほうは発音が不明確で、何を歌っているのかさっぱり聴き取れないのには困った。
ほぼ満席のホール、池辺に寄せられるあたたかい拍手。これだけの祝典演奏会が開催されるのも、彼の親しみやすい個性と人徳ゆえだろう。
池辺晋一郎の傘寿を祝う演奏会で、彼の作品によるプログラムが組まれた。
「相聞Ⅰ」と「相聞Ⅱ」(1970)、「相聞Ⅲ」(2005)、オペラ「死神」(1971)から「死神のアリア」(1978追加)、オペラ「高野聖」(2011)から「夫婦滝」と「白桃の花」、「ピアノ協奏曲Ⅰ」(1967)、「シンフォニーⅪ(交響曲第11番)《影を薄くする忘却》」(2023、世界初演)。
演奏には、広上淳一の指揮のもと、オーケストラ・アンサンブル金沢、東京混声合唱団、古瀬まきを(S)、中鉢聡(T)、北村朋幹(pf)が参加した。主催は東京オペラシティ文化財団。
若い時期の作品から最新作までを組み合わせたプログラミングは、池辺晋一郎の作風の変遷、もしくは多様性を窺い知るために、大変興味深い。
例えば「相聞」の3曲のように、最初の2曲と最後の1曲の作曲時期の間に35年もの開きがある場合、若い頃の作品の方が所謂「現代音楽っぽい」気負った作風が示されるのに対し、円熟期に入った3曲目では、穏やかな叙情美が優先されているのが判る。
もっともそうは言っても、1971年のオペラ「死神」では、決して尖った作風になっていないところなどからすると、やはり彼は初期の頃からそれぞれの性格に応じた「使い分け」の巧い人だったのだろう。
思いだしたが、比較的最近の何かの記事に、彼が「僕はいわゆるゲンダイオンガク的な手法は採りたくない」とかいったような━━正確な引用ではないかもしれないが━━ことをコメントしていたような記憶もあるのだが‥‥。
最後に演奏された第11番の交響曲は、東京オペラシティ文化財団と、オーケストラ・アンサンブル金沢からの委嘱の由。「第10番」と同じように、優しさの中にも翳りの濃い、一抹の不安感をも滲ませた曲想も印象に残る。もしかしたら、シンフォニーにおいて、池辺晋一郎の作風が一種のジュンテーゼ(綜合)の域に達したことが示されているのだろうか、という気がしないでもない。
なお、オペラはもちろん日本語の歌詞だが、中鉢聡の明快な歌詞の発音がオペラの内容を如実に伝えてくれた一方、古瀬まきを(若い妖艶な死神役)のほうは発音が不明確で、何を歌っているのかさっぱり聴き取れないのには困った。
ほぼ満席のホール、池辺に寄せられるあたたかい拍手。これだけの祝典演奏会が開催されるのも、彼の親しみやすい個性と人徳ゆえだろう。
2023・9・12(火)マリオ・ヴェンツァーゴ指揮読売日本交響楽団
サントリーホール 7時
1948年チューリヒ生れのマリオ・ヴェンツァーゴが来日、スクロヴァチェフスキ(生誕100年記念)の「交響曲」と、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」(ノーヴァク版)を指揮。
スクロヴァチェフスキの「交響曲」は2003年の作で、同年ミネアポリスで初演されたものという。これが日本初演の由だ。
第1楽章の開始部など、音楽が最弱音で動き始めたかと思うとすぐに総休止となり、それが何度も繰り返されるので、この調子でずっとやられたらたまらないなと不安にさせられたのは事実だったが、ほどなくして変化に富んだ刺激的な曲想が躍動し始め、多彩極まる管弦楽法に耳を奪われるに至った。そして、30分以上に及ぶ長さの交響曲は見事に完結してしまったのである。スクロヴァチェフスキの作曲家としての手腕に、改めて舌を巻いた次第であった。
ブルックナーの方は、ヴェンツァーゴの指揮のユニークさに、これまた感心させられた。こういう素朴で飾り気のない、変な言い方だが「田舎のブルックナー」的な、良い意味で野暮ったさの横溢したブルックナーも面白い。しかし、それでいながら音楽の構築の隅々まで神経を行き届かせた指揮なのだから、聴く側でも納得させられてしまう。
例えば第1楽章の第1主題の部分で、管が吹く主題の起伏に合わせて弦のトレモロのダイナミックスを微細に調整して行くといった細かい構築、あるいは第3楽章スケルツォの冒頭のトレモロの1小節目を爽やかな風が吹き始めるような音で響かせたユニークな発想、同じスケルツォのTempoⅠ以降(ブルックナー協会版総譜の88頁上段中央から)で、フルートをホルンの彼方からエコーのように━━それこそ森の奥から聞こえて来る木霊のように━━響かせた絶妙なバランス感(ここはしかし、1回目の方がうまく行っていた)など。
それにしても、これらを含めて、指揮者の個性に対する読響の反応の見事さは、驚くべきものだった。コンサートマスターは林悠介。
1948年チューリヒ生れのマリオ・ヴェンツァーゴが来日、スクロヴァチェフスキ(生誕100年記念)の「交響曲」と、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」(ノーヴァク版)を指揮。
スクロヴァチェフスキの「交響曲」は2003年の作で、同年ミネアポリスで初演されたものという。これが日本初演の由だ。
第1楽章の開始部など、音楽が最弱音で動き始めたかと思うとすぐに総休止となり、それが何度も繰り返されるので、この調子でずっとやられたらたまらないなと不安にさせられたのは事実だったが、ほどなくして変化に富んだ刺激的な曲想が躍動し始め、多彩極まる管弦楽法に耳を奪われるに至った。そして、30分以上に及ぶ長さの交響曲は見事に完結してしまったのである。スクロヴァチェフスキの作曲家としての手腕に、改めて舌を巻いた次第であった。
ブルックナーの方は、ヴェンツァーゴの指揮のユニークさに、これまた感心させられた。こういう素朴で飾り気のない、変な言い方だが「田舎のブルックナー」的な、良い意味で野暮ったさの横溢したブルックナーも面白い。しかし、それでいながら音楽の構築の隅々まで神経を行き届かせた指揮なのだから、聴く側でも納得させられてしまう。
例えば第1楽章の第1主題の部分で、管が吹く主題の起伏に合わせて弦のトレモロのダイナミックスを微細に調整して行くといった細かい構築、あるいは第3楽章スケルツォの冒頭のトレモロの1小節目を爽やかな風が吹き始めるような音で響かせたユニークな発想、同じスケルツォのTempoⅠ以降(ブルックナー協会版総譜の88頁上段中央から)で、フルートをホルンの彼方からエコーのように━━それこそ森の奥から聞こえて来る木霊のように━━響かせた絶妙なバランス感(ここはしかし、1回目の方がうまく行っていた)など。
それにしても、これらを含めて、指揮者の個性に対する読響の反応の見事さは、驚くべきものだった。コンサートマスターは林悠介。
2023・9・11(月)久石譲指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
サントリーホール 7時
2020年秋から新日本フィルのMusic Partnerを務める久石譲が、自作の「Adagio for 2 Harps and Orchestra」と、マーラーの「交響曲第5番」を指揮した。コンサートマスターは西江辰郎。客席はほぼ満席に近い。
久石譲の指揮は、7年前にナガノ・チェンバー・オーケストラを指揮した演奏(☞2016年7月17日)以降、聴く機会を得なかったが、あの時の所謂「ロック調ベートーヴェン」のスタイルは、今でも彼の指揮の信条として貫かれているようである。
今回のマーラーの「5番」も、この作曲家がこだわった音符の精緻なニュアンスの変化などには一切頓着せず、基本的にイン・テンポで驀進し、ひたすら強大な音響と、猛烈なエネルギー感を前面に押し出した演奏となっていた。
どろどろした情念のしがらみ(?)のない、健康的で快活で、スポーツ的なマーラー像のみが抽出された━━といえば、それはそれで楽しめる人もいるかもしれない。だが、私にはこの演奏は、ひどく単調なものに感じられてしまった。
「Adagio」は、新日本フィルの委嘱作品で、一昨日のトリフォニーホール公演での演奏が世界初演だった由。マーラーの「第5交響曲」の第4楽章「アダージェット」をモデルとして作曲されたようである。
2020年秋から新日本フィルのMusic Partnerを務める久石譲が、自作の「Adagio for 2 Harps and Orchestra」と、マーラーの「交響曲第5番」を指揮した。コンサートマスターは西江辰郎。客席はほぼ満席に近い。
久石譲の指揮は、7年前にナガノ・チェンバー・オーケストラを指揮した演奏(☞2016年7月17日)以降、聴く機会を得なかったが、あの時の所謂「ロック調ベートーヴェン」のスタイルは、今でも彼の指揮の信条として貫かれているようである。
今回のマーラーの「5番」も、この作曲家がこだわった音符の精緻なニュアンスの変化などには一切頓着せず、基本的にイン・テンポで驀進し、ひたすら強大な音響と、猛烈なエネルギー感を前面に押し出した演奏となっていた。
どろどろした情念のしがらみ(?)のない、健康的で快活で、スポーツ的なマーラー像のみが抽出された━━といえば、それはそれで楽しめる人もいるかもしれない。だが、私にはこの演奏は、ひどく単調なものに感じられてしまった。
「Adagio」は、新日本フィルの委嘱作品で、一昨日のトリフォニーホール公演での演奏が世界初演だった由。マーラーの「第5交響曲」の第4楽章「アダージェット」をモデルとして作曲されたようである。
2023・9・9(土)ヴェルディ:「2人のフォスカリ」
新国立劇場オペラパレス 2時
藤原歌劇団の公演(日本オペラ振興会主催)で、共催は新国立劇場と東京二期会。
田中祐子の指揮、伊香修吾の演出。10日とのダブルキャストで、今日は上江隼人(ヴェネツィアの総督フランチェスコ・フォスカリ)、藤田卓也(その息子ヤコポ・フォスカリ)、佐藤亜希子(その妻ルクレツィア)、中桐香苗(その親友)、田中大揮(政敵ヤコポ・ロレダーノ)、及川尚志(その仲間バルバリーゴ)。東京フィルハーモニー交響楽団と、藤原歌劇団合唱部、新国立劇場合唱団、二期会合唱団。
珍しいオペラを取り上げてくれたものだ。ヴェルディの初期の作品で、「ナブッコ」「十字軍のロンバルディア人」に続くオペラである。
「2人のフォスカリ」とはフォスカリ父子のこと。15世紀に実在した人物で、ストーリーもほぼ歴史上の出来事に従っているが、主人公の父子を襲った救いようのない悲劇という形が採られているため、2人に同情的に描かれていることは当然だろう。物語がなかなか進展しないというピアーヴェの台本の拙さは感じられるものの、ヴェルディのシンプルながら美しい旋律と和声にあふれた音楽が快い。
このヴェルディの音楽の良さを引き出した第一の功績者として、私はやはり田中祐子の指揮を挙げたい。彼女のオペラでの指揮はこれまで僅かしか聴く機会がなかったのだが、切れがよくて活気があり、メロディとハーモニーを生き生きと描き出して、今日の指揮でも特にストレッタの個所での緊迫感の豊かさが際立ち、それがヴェルディ初期の音楽の特徴をうまく生かしていたのではないかと思われる。東京フィルも好演だった。
歌手陣では、まず佐藤亜希子の豊かな声による情熱的な歌唱が印象に残る。自らの夫を陥れた政敵への怒りに燃え、義父フォスカリに復讐を唆す第3幕での歌唱と演技などはすこぶる迫真力にあふれていて、その「煽り」がむしろ、打ちひしがれた老総督の精神をいっそう破壊させてしまうのではないか━━とハラハラさせられるような場面をもつくり出していたあたり、見事なものだった。
父親フォスカリ役の上江隼人も滋味あふれる演技と歌唱で、今回は最初から苦悩に満ちた「老い」を感じさせる総督として描かれる存在だったが、父親と公務との板挟みになる役柄をうまく表現していたと言えよう。
息子フォスカリ役の藤田卓也は、今日は声が必ずしも本調子でなかったのかもしれないが、ここぞという個所での伸びのいい歌唱は、流刑の憂き目には遭うものの、まさに「無実な青年」という純粋さを感じさせる表現をつくり出していただろう。
伊香修吾の演出は、シンプルで暗い舞台(二村周作の美術)により、暗黒政治の世界といった雰囲気をよく表現していたとは思うものの、父子への復讐に燃える政敵ロレダーノの存在をもっと不気味に描き出していれば━━特に第3幕において━━このドラマにおける人物構図がいっそう明らかになっていただろうとも思う。
ただ、「十人委員会」の人物たちの動きは如何にも不器用で所在無げで表情に乏しく、これは演出の責任である(この連合合唱団、今回はアンサンブルを含め、あまり感心しなかった)。
藤原歌劇団の公演(日本オペラ振興会主催)で、共催は新国立劇場と東京二期会。
田中祐子の指揮、伊香修吾の演出。10日とのダブルキャストで、今日は上江隼人(ヴェネツィアの総督フランチェスコ・フォスカリ)、藤田卓也(その息子ヤコポ・フォスカリ)、佐藤亜希子(その妻ルクレツィア)、中桐香苗(その親友)、田中大揮(政敵ヤコポ・ロレダーノ)、及川尚志(その仲間バルバリーゴ)。東京フィルハーモニー交響楽団と、藤原歌劇団合唱部、新国立劇場合唱団、二期会合唱団。
珍しいオペラを取り上げてくれたものだ。ヴェルディの初期の作品で、「ナブッコ」「十字軍のロンバルディア人」に続くオペラである。
「2人のフォスカリ」とはフォスカリ父子のこと。15世紀に実在した人物で、ストーリーもほぼ歴史上の出来事に従っているが、主人公の父子を襲った救いようのない悲劇という形が採られているため、2人に同情的に描かれていることは当然だろう。物語がなかなか進展しないというピアーヴェの台本の拙さは感じられるものの、ヴェルディのシンプルながら美しい旋律と和声にあふれた音楽が快い。
このヴェルディの音楽の良さを引き出した第一の功績者として、私はやはり田中祐子の指揮を挙げたい。彼女のオペラでの指揮はこれまで僅かしか聴く機会がなかったのだが、切れがよくて活気があり、メロディとハーモニーを生き生きと描き出して、今日の指揮でも特にストレッタの個所での緊迫感の豊かさが際立ち、それがヴェルディ初期の音楽の特徴をうまく生かしていたのではないかと思われる。東京フィルも好演だった。
歌手陣では、まず佐藤亜希子の豊かな声による情熱的な歌唱が印象に残る。自らの夫を陥れた政敵への怒りに燃え、義父フォスカリに復讐を唆す第3幕での歌唱と演技などはすこぶる迫真力にあふれていて、その「煽り」がむしろ、打ちひしがれた老総督の精神をいっそう破壊させてしまうのではないか━━とハラハラさせられるような場面をもつくり出していたあたり、見事なものだった。
父親フォスカリ役の上江隼人も滋味あふれる演技と歌唱で、今回は最初から苦悩に満ちた「老い」を感じさせる総督として描かれる存在だったが、父親と公務との板挟みになる役柄をうまく表現していたと言えよう。
息子フォスカリ役の藤田卓也は、今日は声が必ずしも本調子でなかったのかもしれないが、ここぞという個所での伸びのいい歌唱は、流刑の憂き目には遭うものの、まさに「無実な青年」という純粋さを感じさせる表現をつくり出していただろう。
伊香修吾の演出は、シンプルで暗い舞台(二村周作の美術)により、暗黒政治の世界といった雰囲気をよく表現していたとは思うものの、父子への復讐に燃える政敵ロレダーノの存在をもっと不気味に描き出していれば━━特に第3幕において━━このドラマにおける人物構図がいっそう明らかになっていただろうとも思う。
ただ、「十人委員会」の人物たちの動きは如何にも不器用で所在無げで表情に乏しく、これは演出の責任である(この連合合唱団、今回はアンサンブルを含め、あまり感心しなかった)。
2023・9・8(金)サッシャ・ゲッツェル指揮東京都交響楽団
サントリーホール 7時
ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはネマニャ・ラドゥロヴィチ)と、コルンゴルトの「シンフォニエッタ」が演奏された。コンサートマスターは山本友重。
ゲッツェルはとてもいい指揮者だと思うが、これまで日本で聴いた演奏ではその本来の特徴をつかみかねていたのが正直なところだった。だが今日の2曲での指揮を聴いて、やはりこの人は作品によって大きくスタイルを変える主義の指揮者なのだなと思った次第である。
たとえば今日のベートーヴェン━━ソリストのラドゥロヴィチにぴたりと合わせたのだろうが、重厚な響きながらしなやかな構築で、主題それぞれの性格に応じてテンポを大きく動かすという、今どきとしては珍しいスタイルの演奏だったと言えるのではないか。
いっぽう、第2部でのコルンゴルトでは━━彼はこの曲を8年前にも神奈川フィルとの定期で取り上げていた(☞2015年11月30日)から、余程愛着があるのかもしれない━━エネルギッシュな演奏構築に一転、作曲者若書きの作品の面白さを要領よく再現してくれた。都響の演奏は、ベートーヴェンのコンチェルトでの方が完璧だったような気がする。
ところで、セルビア出身のラドゥロヴィチの演奏━━これは一種の反時代的な演奏スタイルともいうか、実に面白い。
前述の如くテンポやアゴーギクの変化を大きく採り、緩急を変幻自在、あらゆる音符をじっくりと息づかせる。ちょっとやり過ぎじゃあないか、とも感じられるような演奏だが、それが決して20世紀前半の演奏家のような、これ見よがしの恣意的な演出を感じさせるような演奏にならず、むしろあたたかい語り口の音楽になっているところが魅力だろう。
こういうスタイルのベートーヴェン演奏を今の時代に堂々と押し通すラドゥロヴィチの感性は興味深い。
聴衆の人気も素晴らしく、拍手も爆発的であり、スタンディング・オヴェーションを行なう人々も少なくなかった。なお彼はアンコールにヤドゥランカ・ストヤコヴィッチの「あなたはどこに」という曲を弾いたが、こちらの曲の後では、拍手はさっきほど大きくなかった。
ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはネマニャ・ラドゥロヴィチ)と、コルンゴルトの「シンフォニエッタ」が演奏された。コンサートマスターは山本友重。
ゲッツェルはとてもいい指揮者だと思うが、これまで日本で聴いた演奏ではその本来の特徴をつかみかねていたのが正直なところだった。だが今日の2曲での指揮を聴いて、やはりこの人は作品によって大きくスタイルを変える主義の指揮者なのだなと思った次第である。
たとえば今日のベートーヴェン━━ソリストのラドゥロヴィチにぴたりと合わせたのだろうが、重厚な響きながらしなやかな構築で、主題それぞれの性格に応じてテンポを大きく動かすという、今どきとしては珍しいスタイルの演奏だったと言えるのではないか。
いっぽう、第2部でのコルンゴルトでは━━彼はこの曲を8年前にも神奈川フィルとの定期で取り上げていた(☞2015年11月30日)から、余程愛着があるのかもしれない━━エネルギッシュな演奏構築に一転、作曲者若書きの作品の面白さを要領よく再現してくれた。都響の演奏は、ベートーヴェンのコンチェルトでの方が完璧だったような気がする。
ところで、セルビア出身のラドゥロヴィチの演奏━━これは一種の反時代的な演奏スタイルともいうか、実に面白い。
前述の如くテンポやアゴーギクの変化を大きく採り、緩急を変幻自在、あらゆる音符をじっくりと息づかせる。ちょっとやり過ぎじゃあないか、とも感じられるような演奏だが、それが決して20世紀前半の演奏家のような、これ見よがしの恣意的な演出を感じさせるような演奏にならず、むしろあたたかい語り口の音楽になっているところが魅力だろう。
こういうスタイルのベートーヴェン演奏を今の時代に堂々と押し通すラドゥロヴィチの感性は興味深い。
聴衆の人気も素晴らしく、拍手も爆発的であり、スタンディング・オヴェーションを行なう人々も少なくなかった。なお彼はアンコールにヤドゥランカ・ストヤコヴィッチの「あなたはどこに」という曲を弾いたが、こちらの曲の後では、拍手はさっきほど大きくなかった。
2023・9・7(木)林光:「浮かれのひょう六機織唄」
俳優座劇場 7時
オペラシアターこんにゃく座が上演する、林光作曲、若林一郎台本によるオペラ「浮かれのひょう六機織唄(はたおりうた)」。
1977年に観世栄夫演出により中央会館で初演された作品だが、今回の上演は、こんにゃく座としてはほぼ45年ぶりの再演になる由。
7日から10日まで、計6回の上演で、演出は大石哲史。主役陣はダブルキャストで、今日は金村慎太郎(ひょう六)、高岡由季(お糸)、川中裕子(お縫)、彦坂仁美(おっ母あ)、佐山陽規(庄屋)、他。演奏はピアノ(服部真理子)のみである。
ストーリーはコミカルな人情噺で、女口説きを得意とする色男ひょう六が、庄屋に説得され、村の窮状を救うために他村の腕利きの機織娘・お糸を誘惑して拉致して来ようとするが、ものの見事に失敗。だが思わぬ展開によりハッピーエンドになるという流れになるという、いかにも民話的でヒューマンな2幕・90分ほどの長さの「歌芝居」である。
お糸の見送りを受けてひょう六がお縫を連れていそいそと故郷へ戻るラストシーンでは、客席から拍手が起こる。いかにも民話オペラという感だ。不思議な懐かしさを呼び覚ますこの歌芝居を観ながら、私は何となく1973年に大分で観た清水脩の「吉四六昇天」(立川清登主演)のことを思い出していた。
オペラシアターこんにゃく座が上演する、林光作曲、若林一郎台本によるオペラ「浮かれのひょう六機織唄(はたおりうた)」。
1977年に観世栄夫演出により中央会館で初演された作品だが、今回の上演は、こんにゃく座としてはほぼ45年ぶりの再演になる由。
7日から10日まで、計6回の上演で、演出は大石哲史。主役陣はダブルキャストで、今日は金村慎太郎(ひょう六)、高岡由季(お糸)、川中裕子(お縫)、彦坂仁美(おっ母あ)、佐山陽規(庄屋)、他。演奏はピアノ(服部真理子)のみである。
ストーリーはコミカルな人情噺で、女口説きを得意とする色男ひょう六が、庄屋に説得され、村の窮状を救うために他村の腕利きの機織娘・お糸を誘惑して拉致して来ようとするが、ものの見事に失敗。だが思わぬ展開によりハッピーエンドになるという流れになるという、いかにも民話的でヒューマンな2幕・90分ほどの長さの「歌芝居」である。
お糸の見送りを受けてひょう六がお縫を連れていそいそと故郷へ戻るラストシーンでは、客席から拍手が起こる。いかにも民話オペラという感だ。不思議な懐かしさを呼び覚ますこの歌芝居を観ながら、私は何となく1973年に大分で観た清水脩の「吉四六昇天」(立川清登主演)のことを思い出していた。
2023・9・2(土)セイジ・オザワ松本フェスティバル
オーケストラ コンサート Bプログラム ジョン・ウィリアムズ・プロ
キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 3時
今年の人気目玉公演。
通常のチケット購入システムでは大混乱必至と予想したフェスティバルの事務局は、それを抽選方式に切り替えた。混乱は避け得たが、その倍率は14倍に達したというから驚異的である。
ジョン・ウィリアムズご本人はコンサートの後半のプログラムしか指揮せず、前半はステファヌ・ドゥネーヴが指揮するという演奏会なのだが、それでもこれだけの人気を集めるのだから、ジョン・ウィリアムズの音楽━━もちろん映画音楽だが━━の人気も大したものだ。
今日ではウィーン・フィルさえ彼の作品による演奏会を開催し、アンネ・ゾフィー・ムターも彼の作品集をレコーディングするという時代である。
かつてエーリヒ・コルンゴルトにより確立され、その後マックス・スタイナーらにより発展させられて来たハリウッドの「大編成のオーケストラを使った壮大でスペクタクルな映画音楽」というジャンル━━その最後の巨匠ともいうべきジョン・ウィリアムズの音楽がこれほどの人気を集めるというのは、映画音楽に対する世界の人々の好みを窺わせて興味深いものがあろう。
文字通り満席となった今日のサイトウ・キネン・オーケストラの演奏会、前半ではドゥネーヴが「雅の舞」、「Tributes!(for Seiji)」、「遥かなる大地へ」組曲、「E.T」からの音楽を指揮した。
因みに「雅の舞」は1993年のボストン・ポップス管弦楽団の日本公演のために書かれた曲。
また「Tributes!(for Seiji)」はボストン交響楽団の首席奏者たちの肖像画集といった意味で作曲され、小澤征爾へ献呈された曲の由で、小澤自身を描いたものではないそうな(プログラム冊子掲載のジョン・バーリンゲイムによる解説)。曲想がバラバラだったのはそのためだったのか。この曲だけ、ジョン・ウィリアムズが、現代音楽作曲家としてのおれの腕を見ろ、といわんばかりに書いたような印象を与える。
そして第2部では御大ジョン・ウィリアムズ自身が登場。91歳にもかかわらず足取りはしっかりしており、終始立ったままで指揮を続け、明晰な口調でユーモアに富んだスピーチをするという若々しさだ。
彼が現れて「スーパーマン・マーチ」を振り始めた途端に、サイトウ・キネン・オーケストラの音色がガラリと変わり、柔かく美しく、バランスのいい響きになったのには驚いた。この第2部の曲目はドゥネーヴが下振りしてまとめていたという話だったが、それにもかかわらず本番の演奏でこのように響きが一変していたというのは、やはり指揮者の人柄が放射する不思議な魔力といったものの所為ではなかろうか。
私自身も、こういったプログラムは「サイトウ・キネン・フェスティバル~セイジ・オザワ松本フェスティバル」の本道ではあるまい、と多少斜めに視ていたものの、いざ彼が指揮台に姿を見せ、そして「スーパーマン・マーチ」の軽快なリズムが響き出した時には、なるほど、こういう路線もありだな、と瞬時に気持が変わってしまったのだから、やはり彼の雰囲気と芸風の魅力には抗えないものがあったことになる。
彼はそのあと、「ハリー・ポッター」、「シンドラーのリスト」、「スター・ウォーズ」からの音楽を指揮し、しかもアンコールとして「インディ・ジョーンズ」と「スター・ウォーズ~帝国への逆襲」からの音楽などをも指揮した。
オーケストラは全てバランスの良い演奏をしていたが、ただその整然たる演奏は、何作も聴いていると、ドゥネーヴの八方破れの賑やかな指揮と比べ、多少単調な印象に感じられて来る傾向がなくもなかった━━。
ジョン・ウィリアムズは、最後に舞台袖から車椅子に乗った小澤征爾総監督を呼び出し、客席もステージも、いっそう沸き返った。そこで演奏されたのが、悪役ダース・ヴェイダーの「帝国のマーチ」だったとは何とも可笑しかったが、ともあれこの最後の1シーンは、ジョンとセイジのボストン時代からの熱い友情を示すものとして、われわれ聴衆に感動を与えてくれたことは事実である。
今年の「セイジ・オザワ松本フェスティバル」は、このようにして「聴衆層の拡大」を見事に実現したイヴェントという意味で、30年の歴史にあたらしい、しかしユニークな1頁を刻んだことになるだろう。
さて、来年は、また「本道」に戻るだろうか?
今年の人気目玉公演。
通常のチケット購入システムでは大混乱必至と予想したフェスティバルの事務局は、それを抽選方式に切り替えた。混乱は避け得たが、その倍率は14倍に達したというから驚異的である。
ジョン・ウィリアムズご本人はコンサートの後半のプログラムしか指揮せず、前半はステファヌ・ドゥネーヴが指揮するという演奏会なのだが、それでもこれだけの人気を集めるのだから、ジョン・ウィリアムズの音楽━━もちろん映画音楽だが━━の人気も大したものだ。
今日ではウィーン・フィルさえ彼の作品による演奏会を開催し、アンネ・ゾフィー・ムターも彼の作品集をレコーディングするという時代である。
かつてエーリヒ・コルンゴルトにより確立され、その後マックス・スタイナーらにより発展させられて来たハリウッドの「大編成のオーケストラを使った壮大でスペクタクルな映画音楽」というジャンル━━その最後の巨匠ともいうべきジョン・ウィリアムズの音楽がこれほどの人気を集めるというのは、映画音楽に対する世界の人々の好みを窺わせて興味深いものがあろう。
文字通り満席となった今日のサイトウ・キネン・オーケストラの演奏会、前半ではドゥネーヴが「雅の舞」、「Tributes!(for Seiji)」、「遥かなる大地へ」組曲、「E.T」からの音楽を指揮した。
因みに「雅の舞」は1993年のボストン・ポップス管弦楽団の日本公演のために書かれた曲。
また「Tributes!(for Seiji)」はボストン交響楽団の首席奏者たちの肖像画集といった意味で作曲され、小澤征爾へ献呈された曲の由で、小澤自身を描いたものではないそうな(プログラム冊子掲載のジョン・バーリンゲイムによる解説)。曲想がバラバラだったのはそのためだったのか。この曲だけ、ジョン・ウィリアムズが、現代音楽作曲家としてのおれの腕を見ろ、といわんばかりに書いたような印象を与える。
そして第2部では御大ジョン・ウィリアムズ自身が登場。91歳にもかかわらず足取りはしっかりしており、終始立ったままで指揮を続け、明晰な口調でユーモアに富んだスピーチをするという若々しさだ。
彼が現れて「スーパーマン・マーチ」を振り始めた途端に、サイトウ・キネン・オーケストラの音色がガラリと変わり、柔かく美しく、バランスのいい響きになったのには驚いた。この第2部の曲目はドゥネーヴが下振りしてまとめていたという話だったが、それにもかかわらず本番の演奏でこのように響きが一変していたというのは、やはり指揮者の人柄が放射する不思議な魔力といったものの所為ではなかろうか。
私自身も、こういったプログラムは「サイトウ・キネン・フェスティバル~セイジ・オザワ松本フェスティバル」の本道ではあるまい、と多少斜めに視ていたものの、いざ彼が指揮台に姿を見せ、そして「スーパーマン・マーチ」の軽快なリズムが響き出した時には、なるほど、こういう路線もありだな、と瞬時に気持が変わってしまったのだから、やはり彼の雰囲気と芸風の魅力には抗えないものがあったことになる。
彼はそのあと、「ハリー・ポッター」、「シンドラーのリスト」、「スター・ウォーズ」からの音楽を指揮し、しかもアンコールとして「インディ・ジョーンズ」と「スター・ウォーズ~帝国への逆襲」からの音楽などをも指揮した。
オーケストラは全てバランスの良い演奏をしていたが、ただその整然たる演奏は、何作も聴いていると、ドゥネーヴの八方破れの賑やかな指揮と比べ、多少単調な印象に感じられて来る傾向がなくもなかった━━。
ジョン・ウィリアムズは、最後に舞台袖から車椅子に乗った小澤征爾総監督を呼び出し、客席もステージも、いっそう沸き返った。そこで演奏されたのが、悪役ダース・ヴェイダーの「帝国のマーチ」だったとは何とも可笑しかったが、ともあれこの最後の1シーンは、ジョンとセイジのボストン時代からの熱い友情を示すものとして、われわれ聴衆に感動を与えてくれたことは事実である。
今年の「セイジ・オザワ松本フェスティバル」は、このようにして「聴衆層の拡大」を見事に実現したイヴェントという意味で、30年の歴史にあたらしい、しかしユニークな1頁を刻んだことになるだろう。
さて、来年は、また「本道」に戻るだろうか?
2023・9・1(金)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団
サントリーホール 7時
山田和樹は、10年間ほど務めた日本フィルの正指揮者のポストからは既に離れているが、日本フィルは今でも秋のシーズン開幕定期を彼の指揮に委ねている。
今回の定期は彼らしくユニークなもので、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、J・S・バッハの「シャコンヌ」(齋藤秀雄編曲)、ウォルトンの「戴冠式行進曲《宝玉と勺杖》」、同「交響曲第2番」というプログラムが組まれていた。
彼のプレトーク(相変わらず面白い)によれば、「楽しさ」と「シリアス」が交互に出て来る流れになっている由。
日本フィルの定期の通例として、初日の演奏は多少ガサガサしているものだが、それでも沸き立つような活気にあふれた演奏だったことは間違いないだろう。
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」をオーケストラの定期でやるという例は、あまりない(とマエストロ・ヤマカズもプレトークで語っていた)。しかも今回は16型編成で演奏されたのだから、結構な迫力である。スピーディで勢いも良く、物々しい「アイネ・クライネ」にならずに済んだ。
続く「シャコンヌ」のアプローチも面白い。通常は「マエストーゾ」(荘厳に)というイメージで演奏されることが多いが、今回はクレッシェンドも凄まじく、すこぶる劇的に、悲愴な情熱の爆発といった雰囲気で再現されていた。
後半はウォルトンの作品2曲。「戴冠式行進曲」は私にとってはあまり面白い曲には感じられないけれども、山田和樹の指揮は「行進曲」というよりは「舞曲」といったような感の、飛び跳ねるようなイメージになっていたのが興味深かった。
「第2交響曲」は、今夜の白眉であったろう。特に第2楽章の神秘的な曲想━━低音のリズムが遠くから忍び寄って来るあたりの幻想的な雰囲気は私の好きなところ。総じて、山田和樹の快活で弾力的な躍動に満ちた音楽づくりが素晴らしく、昨年9月定期での「第1交響曲」に続き、ウォルトンの音楽の良さを印象づけてくれた演奏であった。
コンサートマスターは扇谷泰朋。
山田和樹は、10年間ほど務めた日本フィルの正指揮者のポストからは既に離れているが、日本フィルは今でも秋のシーズン開幕定期を彼の指揮に委ねている。
今回の定期は彼らしくユニークなもので、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、J・S・バッハの「シャコンヌ」(齋藤秀雄編曲)、ウォルトンの「戴冠式行進曲《宝玉と勺杖》」、同「交響曲第2番」というプログラムが組まれていた。
彼のプレトーク(相変わらず面白い)によれば、「楽しさ」と「シリアス」が交互に出て来る流れになっている由。
日本フィルの定期の通例として、初日の演奏は多少ガサガサしているものだが、それでも沸き立つような活気にあふれた演奏だったことは間違いないだろう。
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」をオーケストラの定期でやるという例は、あまりない(とマエストロ・ヤマカズもプレトークで語っていた)。しかも今回は16型編成で演奏されたのだから、結構な迫力である。スピーディで勢いも良く、物々しい「アイネ・クライネ」にならずに済んだ。
続く「シャコンヌ」のアプローチも面白い。通常は「マエストーゾ」(荘厳に)というイメージで演奏されることが多いが、今回はクレッシェンドも凄まじく、すこぶる劇的に、悲愴な情熱の爆発といった雰囲気で再現されていた。
後半はウォルトンの作品2曲。「戴冠式行進曲」は私にとってはあまり面白い曲には感じられないけれども、山田和樹の指揮は「行進曲」というよりは「舞曲」といったような感の、飛び跳ねるようなイメージになっていたのが興味深かった。
「第2交響曲」は、今夜の白眉であったろう。特に第2楽章の神秘的な曲想━━低音のリズムが遠くから忍び寄って来るあたりの幻想的な雰囲気は私の好きなところ。総じて、山田和樹の快活で弾力的な躍動に満ちた音楽づくりが素晴らしく、昨年9月定期での「第1交響曲」に続き、ウォルトンの音楽の良さを印象づけてくれた演奏であった。
コンサートマスターは扇谷泰朋。
2023・8・31(木)上岡敏之指揮読響 ブルックナー8番
サントリーホール 7時
読響の「名曲シリーズ」。当初の予定ではローター・ツァグロゼクが久しぶりに客演し、ブルックナーの「第8交響曲」を振ることになっていたのだが、急病のため来日中止となった。
実力派としての彼の指揮が好きな私としては大いに落胆した次第だが、代役が上岡敏之と知らされて、それなら役に不足はないと安堵。多くのお客さんたちにとっても、おなじみの上岡の登場なら、不満はなかったろうと思う。
彼は今年3月にも新日本フィルでこの曲を指揮しており(☞2023年3月25日)、彼の指揮する「ブル8」を異なるオーケストラで聴き比べるという面白さも生まれたわけだ。
で、こちら読響のほうだが、予想に反してあまり重心の低くない響きの、弦も管も鋭角的な音色をもった、ピリピリした「ブル8」だったと言えようか。
緊張感に富んだ長い総休止の多用は新日本フィルとの演奏におけるものと同じだが、細部にわたり神経を行き届かせたいつもの上岡らしい彫琢の指揮は、残念ながら今回は聴けなかったようである。リハーサル時間の問題か、それとも‥‥?
最近では先日のニールセンの「5番」(☞2023年5月31日)でも証明されたように、読響は上岡にとって最も相性のいいオーケストラであるはずなのだが‥‥。
だがしかし、全曲最後の大頂点での、各楽章の主題が合体して鳴り響く個所で上岡と読響がつくり出した壮大な均衡の法悦感は、このコンビが今日初めて聴かせた見事な瞬間だったことはたしかである。
コンサートマスターは長原幸太。全曲の演奏時間はほぼ85分。
カーテンコールでは、上岡敏之はソロで呼び出され、熱烈な拍手を浴びていた。
読響の「名曲シリーズ」。当初の予定ではローター・ツァグロゼクが久しぶりに客演し、ブルックナーの「第8交響曲」を振ることになっていたのだが、急病のため来日中止となった。
実力派としての彼の指揮が好きな私としては大いに落胆した次第だが、代役が上岡敏之と知らされて、それなら役に不足はないと安堵。多くのお客さんたちにとっても、おなじみの上岡の登場なら、不満はなかったろうと思う。
彼は今年3月にも新日本フィルでこの曲を指揮しており(☞2023年3月25日)、彼の指揮する「ブル8」を異なるオーケストラで聴き比べるという面白さも生まれたわけだ。
で、こちら読響のほうだが、予想に反してあまり重心の低くない響きの、弦も管も鋭角的な音色をもった、ピリピリした「ブル8」だったと言えようか。
緊張感に富んだ長い総休止の多用は新日本フィルとの演奏におけるものと同じだが、細部にわたり神経を行き届かせたいつもの上岡らしい彫琢の指揮は、残念ながら今回は聴けなかったようである。リハーサル時間の問題か、それとも‥‥?
最近では先日のニールセンの「5番」(☞2023年5月31日)でも証明されたように、読響は上岡にとって最も相性のいいオーケストラであるはずなのだが‥‥。
だがしかし、全曲最後の大頂点での、各楽章の主題が合体して鳴り響く個所で上岡と読響がつくり出した壮大な均衡の法悦感は、このコンビが今日初めて聴かせた見事な瞬間だったことはたしかである。
コンサートマスターは長原幸太。全曲の演奏時間はほぼ85分。
カーテンコールでは、上岡敏之はソロで呼び出され、熱烈な拍手を浴びていた。