2024-03

2023・11・15(水)新国立劇場の「シモン・ボッカネグラ」初日

       新国立劇場オペラパレス  7時

 ヴェルディのオペラ「シモン・ボッカネグラ」を新国立劇場が制作したのは、今回が初めてである。
 フィンランド国立歌劇場とテアトロ・レアル(マドリードの王立歌劇場)との共同制作によるものだが、嘆かわしいレパートリーの穴を埋めるものとして、しかも音楽的にも演出の上でも高い水準のプロダクションとして上演されたのは有難いことであった。

 まず第一に、大野和士の指揮する東京フィルハーモニー交響楽団が、極めて緻密な、バランスの良い演奏を聴かせていたことを挙げなくてはなるまい。
 冒頭の弦の叙情的な美しさなど、これまでの「オケ・ピットにおける東京フィル」からはあまり聴けないものであった。大野和士が芸術監督になってから、特にこの1年ほどの間に、「新国立劇場のオーケストラ」の演奏水準は、目に見えて向上して来たように思われる。

 そして今回の歌手陣━━これも充実していた。
 顔ぶれは、ロベルト・フロンターリ(ジェノヴァの総督シモン・ボッカネグラ)、イリーナ・ルング(シモンの娘アメーリア)、ルチアーノ・ガンチ(その恋人ガブリエーレ・アドルノ)、シモーネ・アルベルギーニ(総督の腹心パオロ・アルビアーニ)、リッカルド・ザネッラート(アメーリアの祖父ヤコポ・フィエスコ)、須藤慎吾(パオロの同志)、村上敏明(隊長)、鈴木涼子(侍女)。

 これらの人たちが全員、完璧なほどの歌唱で活躍していたのが嬉しい。初日ということもあってか、一部の歌手は立ち上がりが悪かったけれども、このくらいは仕方のないことだろう。特にザネッラートは歌唱・演技とも堂々たるもので、この「シモンの政敵」をすこぶる公平な、むしろ立派な人物として描き出していたのが面白かった。

 そして第三に、ピエール・オーディの演出とアニッシュ・カプーアの舞台美術である。
 このすこぶる入り組んだ人物構図と複雑極まる筋書きを、オーディは徒な装飾を排し、極めてシンプルな形で、人物の性格表現にのみ重点を置いて構築していた。ただ、それでもプロローグと第1幕の間に長い年月があったこととか、舞台上の人物の判別とかなどの点で、いささか解り難いものがあったことは事実で━━しかしこれはもう、観客みずからが予め人物関係を調べて覚えておく以外に方法はないだろう。何しろ、どう説明したところで、ややこしいストーリーなのだから‥‥。

 私が舌を巻いたのは、プロローグの最後の場面で遺体として横たわっていたマリア(シモンの妻、フィエスコの娘)の姿を、25年後の舞台たる第1幕で、そのまま娘のアメーリアに引き継がせ、そこから起き上がらせて次のドラマに入って行くという発想だ。アメーリアがマリアの娘で、洗礼名もマリアだったことが、このすり替えによって象徴させているというわけである。

 カプーアの抽象的な舞台美術も印象に残る。総じて暗いが、黒色と赤色が効果的に対比されていて、特に天から逆さに吊られている火山が「対立抗争、憎悪」の象徴とされ、ラストシーンなどで平和が訪れた時にはそれが姿を消す━━といったような構図が面白い。

 これは、近年の新国立劇場のプロダクションの中でも、ベストの部類に入る上演ではないかと思う。大野和士芸術監督の努力の成果であることは疑いないだろう。
 30分の休憩1回を含め、上演時間は約3時間。

2023・11・14(火)河村尚子&アレクサンドル・メルニコフ

       東京芸術劇場 コンサートホール  7時

  第1部は連弾で、シューベルトの「幻想曲ヘ短調」とドビュッシーの「海」(作曲者による4手版編曲)。第2部は2台のピアノによる演奏でラフマニノフの「交響的舞曲」。シューベルトとラフマニノフでは河村が「第2」を受け持っていた。

 いずれも本当に見事なピアノ・デュオだった。ピアノ・デュオというものの良さ、快さを久しぶりに味わった気がする。
 河村とメルニコフは、シューベルトの「幻想曲」では、シューベルト最後期の哀愁の情感を、これ以上はないほどに深々とした演奏で聴かせてくれた。あのハンガリー風の主題が、何と憂愁に満ちて聞こえたことか。

 「海」は、さすが作曲者自身の編曲による強さというべきか、バランスの良い編曲で、管弦楽版に勝るとも劣らぬ精妙な響きを持っている。
 以前、アンドレ・カプレが編曲した版を永井幸枝とダグ・アシャツの演奏によるBISのCDで聴いたことがあったが、あれは随分華やかな編曲で、面白いけれども原曲のイメージとは全然違うな、と思ったものだった。今回のドビュッシー版を聴いて、なるほどと感心した次第である。充実の演奏だった。

 ラフマニノフの「交響的舞曲」は、前述の通り2台のピアノで演奏された。ただ、それなりの意図はあったのだろうが━━メルニコフが弾く下手側の第1ピアノには蓋が付いており、正規の角度に開いたままになっているので、河村が弾く上手側の第2ピアノ(当然蓋は外されている)とのバランスがどうもよくないのが気になった。
 なんせメルニコフが猛烈に叩くので、彼の大音響の方が目立ってしまう。まるで、大暴れする彼の音を河村尚子が優しくあたたかく受け止める、といった雰囲気だ。もちろん演奏そのものは素晴らしかったけれど。

 アンコールでは、再び連弾(河村が「第1」)で、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」から「美女と野獣」が弾かれた。彼女が短いスピーチをやり、その曲名をすこぶる意味ありげにアナウンスした時には、客席の一部から軽い笑いが起こったのだが、シンとしていた大半の人々は「生真面目な」お客さんであろう。

2023・11・12(日)トゥガン・ソヒエフ指揮ウィーン・フィル

       サントリーホール  4時

 R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」と、ブラームスの「交響曲第1番」というプログラム。アンコールにはJ・シュトラウスⅡの「春の声」と「トリッチ・トラッチ・ポルカ」が演奏された。

 プログラム冊子によると、ウィーン・フィルの来日は、今回が38回目になるという。最初の来日はもう67年前のこと━━1956年4月で、それは私も覚えている。もちろんチケットを買って聴きに行ける身分ではなく、ラジオ(AM)や新聞だけでその噂を知るだけだったが、とにかく世の中は、まるで音楽の神様が降臨したような騒ぎだった。

 何しろ、それまでに日本の音楽ファンは、外来オーケストラと言えば、1955年5月に来たシンフォニー・オブ・ジ・エア―(元NBC交響楽団)の強大なパワーに仰天驚嘆し、1956年4月に来日したミュンヒンガー指揮シュトゥットガルト室内管弦楽団の気品に感動し━━これらの時の音楽界の興奮は、今では想像もつかぬほど凄かった━━というだけの状態だけだったのだから、「世界最高の音楽の都」から来た「高嶺の花」ともいうべきウィーン・フィルがどんなに熱狂的に迎えられたかは推して知るべし、である。
 その時は、オーケストラは小編成で、指揮はヒンデミットだったが、その演奏は典雅な気品に満ちて、とか、黄金のような美しさ、などと言われ、みんな大騒ぎしていたものだった。

 しかし、それから半世紀以上。いつ頃からか、あのウィーン・フィル独特の「音」は、次第に薄れて行ったのではなかろうか。現代ではさまざまな理由により、世界各国のオーケストラは、おしなべてインターナショナルな音色に変貌してしまっているだろう。
 今日のウィーン・フィルを聴いてみると、良かれあしかれ、このオーケストラの音も変わったな、と思わないではいられない。以前は、どんな指揮者だろうと━━カラヤンでもベームでもショルティでも、あるいはティーレマンだろうとゲルギエフだろうとラトルだろうと、だれが振っていてもウィーン・フィルのあの独特の音色は毅然として守られていたものだったが‥‥。

 「ツァラトゥストラはかく語りき」は、もちろん壮大な演奏ではあったものの、昔のウィーン・フィルだったら、もっと甘美な、官能的な表情も響かせていたはずである。それに今日は、オーケストラも何となく座りが悪く、あまりリハーサルをしていなかったのかなという気もした(今回の日本ツアーでは、この曲を演奏したのは今日が最初だった)。

 だが、ブラームスの「1番」はすでに名古屋で演奏していた所為もあっただろう、これはこれで、音楽の上ではすこぶる立派な風格を備えた演奏になっていた。ただ━━ソヒエフは私の御贔屓の指揮者のひとりなので、こんなことを言っては申し訳ないのだが━━彼がリーダーシップを発揮したというよりは、天下のウィーン・フィルを巧く鳴らした、という気もしないではないが‥‥もちろんそれだって指揮者の大きな才能でもあるのだが。

 アンコールの2曲。もはや昔のウィーン・フィルじゃない、とつくづく思わせられたのは、この2曲での演奏だった。

2023・11・11(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

       サントリーホール  6時

 めずらしくベートーヴェンのみのプログラムで、前半に、ゲルハルト・オピッツをソリストに迎えての「ピアノ協奏曲第2番」、後半に「交響曲第6番《田園》」。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 音楽監督ノットと東京響は、国内でいま最も良い関係を確立しているコンビではなかろうか。演奏がそれを実証する。
 今日のベートーヴェン2曲では、いずれも羽毛のように柔らかく軽やかな音色のアンサンブル、微細なエスプレッシーヴォに満たされた精緻精妙な響きの演奏が聴かれた。それは、先代の音楽監督ユベール・スダーンがシューベルト・ツィクルスの際に実現した、隅々まで神経を行き届かせた演奏にも匹敵していただろうと思う。それに応じた東京響もまた、見事なものだった。

 協奏曲では、久しぶりに聴くオピッツのいかにもドイツの正統派といったピアノ━━和声の積み重ねの妙味を明確に出して転調の素晴らしさを利かせ、そして飾り気はないけれども真摯で血の通った情感をたたえたソロに心を打たれたが、それに応えるノットと東京響の、内声部の交錯すら定かにならぬほど柔らかく溶け合ったサウンドにも舌を巻いた。
 気鋭の青年ベートーヴェンが放った意欲作というイメージとは違った解釈の演奏ではあったけれど、この音の美感には別の意味で魅力を感じないではいられない。

 「田園交響曲」は、さらに精緻で、軽やかで、柔らかな演奏だった。弦や管の音符の随所に細かいクレッシェンドやデクレッシェンドを付し━━「嵐」でのティンパニでもそうだった━━そのような細かい動きの中で主題を美しく歌わせて行く見事な呼吸。第2楽章ではやっと聞こえるほどの最弱音まで落とした響きの裡に、フルートとオーボエがささやくように歌って行く。

 第3楽章のスケルツォのリズムと来たら、まるでそよ風が吹き抜けて行くような軽やかさだ。
 内声部の細かい動きさえ柔らかい流れの中に溶け込ませてしまうアンサンブルは協奏曲での演奏と同様だったが、それでいながら、第5楽章の、あの通常はよく聞こえないようなヴィオラの素晴らしい旋律(【I】の個所と【L】の個所)が、はっきりと聞こえて来たのには驚いた。

 そしてこの見事な演奏は、最後に壮麗な夕陽の頂点を築いたあと、日が沈んだ後の安息にゆっくりと向かって行く。
 かくして「そよ風の田園」の1日が終る━━なんかこんな光景は、あの映画「ファンタジア」でも視たような気がするのだが、ふだんは全く連想しないそのような標題音楽的な要素が、何故か今日は最後に至って頭の中に浮かんで来てしまったのである。

 ノットと東響の巧さ、そして━━ベートーヴェンの巧さ。

2023・11・11(土)NISSAY OPERAのヴェルディ「マクベス」

      日生劇場  2時

 指揮・沼尻竜典、演出・粟国淳によるヴェルディの「マクベス」。
 ダブルキャストによる今日の歌手陣は、今井俊輔(マクベス)、田崎尚美(マクベス夫人)、伊藤貴之(バンクォー)、宮里直樹(マクダフ)、村上公太(マルコム)、森季子(侍女)その他の人々。合唱がC.ヴィレッジシンガーズ、管弦楽が読売日本交響楽団。吉崎裕哉(ダンカン王)らダンサー陣も重要な役割を果たす。

 紗幕を活用して、照明(大島祐夫)に趣向を凝らし、暗い霧の彼方あるいは神秘な幻想の中で悪夢が展開されて行くといったような、暗い舞台ですべてが語られる演出は、これなりに効果的だ。もともと亡霊やら魔女やらが活躍するオペラだから、妙にリアルにやるよりは、こういう暗い舞台の方がより怪奇な雰囲気がつくれるはずで、好ましい。

 沼尻竜典と読響は、大団円の場面━━今回は戦いから一気に勝利の合唱に続く版が使用されていた━━でスペクタクルな効果を生み出したが、前半ではもう少し音楽にスムースな流れをつくって欲しかったところ。
 歌手陣ではマクダフ役の宮里直樹が一貫して快調な歌唱を聴かせてくれた。休憩1回を含み、終演は4時55分頃。

 この上演は、「日生劇場開場60周年記念公演」と銘打たれていた。もう60年! ベルリン・ドイツオペラがやって来て、ベームやマゼールらの指揮で「フィデリオ」「フィガロの結婚」「トリスタンとイゾルデ」「ヴォツェック」を上演した、あの沸き立つような開館記念公演のことが、昨日のことのように思いだされる。劇場の内部があの頃と全く同じ鮮度を保っているのも嬉しく、暫し客席から周囲を眺め回し、センチメンタルな感情に浸る。

 終演後、サントリーホールへ向かう。

2023・11・9(木)内田光子とマーラー・チェンバー・オーケストラ(2)

        サントリーホール  7時

 内田光子がソロを弾くモーツァルトのピアノ協奏曲は、今日は「第17番ト長調K.453」と「第22番変ホ長調K.482」。その間にオーケストラだけでイェルク・ヴィトマン(1973~)の「弦楽四重奏曲第2番《コラール四重奏曲》」の室内オーケストラ用編曲版が演奏された。
 プログラムの最後に内田光子がアンコールとして演奏したのは、モーツァルトの「ソナタ第10番ハ長調K.330」第2楽章。

 「K.453」が彼女の指揮で開始された瞬間、オーケストラのあまりにもなだらかな、平板とも言えるような音に、首をひねる。彼女のピアノそのものは決して平板ではないのだから、いっそオーケストラの自主性に任せておいたら如何、とまで考えてしまう。だが意外なことに、第3楽章のアレグレットに入ると、音楽は突然活気を帯び始めて美しくなった。

 一方、「K.482」では、音楽が冒頭から威容を以て聳え立ち(先日の川崎での「ハ長調」がどうしてこういう音楽にならなかったのかと不思議でならない)、それゆえ内田光子のソロとの「調和を保った対照」が見事に実現していたのである。

 ヴィトマンの「コラール四重奏曲」の管弦楽編曲版は、これが日本初演の由。ステージ上に弦楽オーケストラが位置し、客席の上手側と下手側及び後方に僅かな管楽器が点在するという配置で演奏されたこの曲。最弱音で断片的に聞こえはじめる冒頭のコラール主題、そこからゆっくりと時間をかけて高潮して行く音楽の、突き詰めた緊張感の魅力。これも、このマーラー・チェンバー・オーケストラの本領を発揮する印象的な演奏になった。

2023・11・7(火)ルイージ指揮コンセルトヘボウ管弦楽団(2)

      サントリーホール  7時

 ファビオ・ルイージとロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の今回の日本ツアーは、今日が最終日。
 ウェーバーの「オベロン」序曲、リストの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはイェフィム・ブロンフマン)、チャイコフスキーの「交響曲第5番」というプログラムが組まれていた。アンコール曲は、ブロンフマンがショパンの「夜想曲Op.27-2」、オーケストラは3日と同じチャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「ポロネーズ」である。

 コンセルトヘボウ管のチャイコフスキーの5番というと、私はいまだに昔のパウル・ファン・ケンペンが指揮して入れたモノーラル盤の、豪快無比な風格を持った演奏が忘れられないのだが、今日のルイージの指揮した「5番」は、思いがけなくそのダイナミックな豪壮さを思い出させるような演奏に感じられた。
 アクセントが極めて強く、第2楽章で「運命の主題」が再現する個所での最強奏など、叩きつけられるように激しい。昔のルイージからは想像もできなかったような強靭な音楽だが、これはコンセルトヘボウ管の威力を尊重しての指揮だったのか? 

 とにかくオーケストラは巧い。ハイティンク時代ほどではないにしても、立派なオーケストラであることは間違いない。楽団の特徴を一言で言えば、「気品のある風格」とでも形容したらいいのか。
 第2楽章冒頭で主題を吹いたホルンの1番奏者(女性)の柔らかく美しい音色が印象に残る。このホルンは、「オベロン」序曲冒頭でも、遠くから響いて来るような弱音の歌を聴かせていた。そしてルイージとコンセルトヘボウ管は、この序曲では妖精の音楽に相応しく、軽快な演奏を聴かせてくれたのであった。

 ブロンフマンが弾く協奏曲は、実に落ち着いたリストである。こういうゆったりとした、殊更に騒ぎ立てない、品のいいリストは、久しぶりに聴いたような気がする。

 客席の入りがいいのには安心。これだけ名門の外来オケが殺到しているのに、東京のお客さんは強い。

2023・11・5(日)ボローニャ歌劇場 ベルリーニ「ノルマ」

       東京文化会館大ホール  3時

 ボローニャ歌劇場の現在の音楽監督は、あのバイロイトで「さまよえるオランダ人」を指揮したことで話題になった女性指揮者、オクサーナ・リーニフである。その彼女が指揮する「トスカ」と、ファブリツィオ・マリア・カルミナーティが指揮する「ノルマ」とが、今回の引越来日公演のプログラムだ。
 今日は4回の東京公演の最終日、「ノルマ」である。このあと7日から12日までの間に、高崎・名古屋・岡山・びわ湖・大阪での公演がある。

 ところでこのカルミナーティという指揮者、ベテランらしいが、所謂昔タイプのおっとりした指揮で、雰囲気はあるけれども、引き締まった劇的な緊迫感という点では甚だ物足りない。第2幕後半など、音楽がさっぱり高潮しないのだ。ノルマが激怒して一同を扇動する個所で銅鑼が3回鳴らず、中途半端な総休止になってしまっていたのは事故か意図的なものか(それとも版?)判らないが、いずれにしても迫力を欠くもとになったのは確かである。

 ステファニア・ボンファデッリの演出にも似たようなことが言えるだろう。舞台装置はなく、照明の変化と幕の動きと僅かなスモークとでドラマを語って行く手法だが、群衆の動きに表情が不足するなど腑に落ちぬところがあり、特に第2幕後半のドラマが急展開するはずの個所など、もどかしいほどの舞台にとどまった。

 最後はノルマがポリオーネを刺殺し、返す短剣で自らをも刺すという設定に変えられていたが、この場面などももっと凄味が欲しいところだ。
 ノルマとアダルジーザのあの素晴らしい「友情の二重唱」で背後に要らざるチャンバラの場面を入れたり、2人を左右に大きく分けたりして音楽への注意力を削ぐなどの手法は、元ソプラノ歌手がやる演出とは思えないようなやり方である。

 という訳で、指揮と演出に対しては辛辣なことを言わせていただいたけれども、歌唱面は実に好かった。
 題名役のフランチェスカ・ドットはやや細身の歌唱だったが、所謂神秘的で猛女的な巫女というイメージのない、どちらかと言えば可憐さの残るノルマ像ということで、これはこれでひとつのあり方だろう。
 ポリオーネ役のラモン・ヴァルガスは相変わらずの泰平な演技で、声も昔ほどの明るさはなく、ローマ軍司令官としてのカッコ良さには不足するけれども、安定感はある。

 最大のヒットは、アダルジーザを歌った脇園彩である。伸びやかで張りのある声による輝かしい歌唱と表情豊かな演技とで、役柄の上で僅かに控えめな存在を保ちながらも、ドット相手に一歩も譲らず正面から渡り合ったのは見事だった。
 その他、オロヴェーゾのアンドレア・コンチェッティ、クロティルデのベネデッタ・マッツェット、フラヴィオのパオロ・アントニェッティといった人々も安心して聴けた。

2023・11・3(金)ルイージ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  5時

 この10年間近く、マリス・ヤンソンス、グスターヴォ・ヒメノ、ダニエレ・ガッティ、パーヴォ・ヤルヴィというそれぞれの指揮者とともにほぼ2年ごとに来日していたアムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。コロナで1回抜けのような形で、今回は4年ぶりの来日となった。

 首席指揮者は空席のため(マケラが就任するのは2027年だから、随分先のことだ)、ファビオ・ルイージが客演で帯同して来た。プログラムは、ビゼーの「交響曲」に、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」である。

 伝え聞くところによると、最初はメインに「幻想交響曲」をやるとオケ側が言ってきた由。それなら同じフランスものをと、ビゼーの交響曲をリクエストしておいたところ、あとからメインを「新世界」にする、と言って来たのだという。

 ━━まあ、コンセルトヘボウの日本公演に何も「新世界」でなくても、と思われるが、実際に聴いてみると、演奏はなかなか立派なものだった。もちろん、往年のハイティンク時代のような独特の豊潤無比で気品ある個性的な音色とは全く異なる、インターナショナルな響きではあるけれど、たっぷりとした量感を備えた機能的な「新世界」としての良さはあるだろう。
 先日聴いたチェコ・フィルのそれとは別の、西欧のオーケストラによるドヴォルジャークの音楽としての色合いは実にはっきりと出ていたし、スケールの大きな「新世界交響曲」としての愉しさは充分に味わうことはできた。

 ただし、前半のビゼーの交響曲での演奏は、意外にエスプリも洒落っ気も乏しく、あまりリハーサルをしていなかったのかな、という気がしないでもなかったが。

 アンコールは、また「スラヴ舞曲ホ短調」をやるのではないかと冷や冷やしていると、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「ポロネーズ」が華やかに始まった。

2023・11・1(水)セミョン・ビシュコフ指揮チェコ・フィル

      サントリーホール  7時

 チェコ・フィル、4年ぶりの来日。今回はサントリーホールで3回、みなとみらいホールで1回、というだけの日程のようである。4回とも全ドヴォルジャーク・プロということで、今日は序曲「自然の中で」と「ヴァイオリン協奏曲」、「新世界交響曲」が組まれている。うちサントリーホール公演ではソリストが日替わり出演、今日はギル・シャハムが登場した。

 前回の来日公演(☞2019年10月28日)は、セミョン・ビシュコフが音楽監督・首席指揮者に就任した直後の時期だった。あれから両者の呼吸も合って来たのか、それともビシュコフが成長してチェコ・フィルの伝統的な音色を尊重することができるようになったのか、とにかく演奏スタイルはかなり変わったように思われる。

 「自然の中で」では演奏も少々荒っぽかったが、「新世界交響曲」で聴かせたビシュコフとチェコ・フィルの演奏は、久しぶりでこの曲の本来の美しさを再現してくれた快演だったと言ってもいいだろう。
 最も印象的だったのは、「チェコ・フィルの弦」がまた蘇っていたこと。それは往年のカレル・アンチェルらチェコの名指揮者たちの時代のそれとは大きく異なる種のものではあるものの、トゥッティには豊かな膨らみがあり、ヴィオラなど内声部の動きと、チェロやコントラバスの低音弦の動きなどが、まるで大きな空間に木霊するようにたっぷりと響いていたことだ。そのため音楽全体にいっそう厚みが出て、素晴らしく多彩になっていた。すべての主題が、豊かなハーモニーの中で流れて行く。
 ドヴォルジャークは本当に何という美しい魅力的な音楽を書いたのだろう、と、改めて強い感銘を受けた━━ブラームスが羨んだのも尤も至極だ、と。

 「ヴァイオリン協奏曲」でのギル・シャハムとの顔合わせは、今日だけだったようだが、リハーサルの時間はどのくらいあったのかしらん? 彼のソロは、相変わらず魅力的である。なお彼は、ソロ・アンコールとして、スコット・ウィーラーの「アイソレーション・ラグ」という小品を弾いてくれた。
 一方チェコ・フィルは、ホ短調の「新世界交響曲」のあと、アンコールにお定まりのホ短調のドヴォルジャークの「スラヴ舞曲Op.72-2」と、さらにブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」を演奏した。終演は9時25分頃になった。

2023・10・31(火)内田光子とマーラー・チェンバー・オーケストラ

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 内田光子の弾き振りで、モーツァルトのピアノ協奏曲の「第25番ハ長調K.503」と「第27番変ロ長調K.595」。その間にオーケストラのみでシェーンベルクの「室内交響曲第1番Op.9」が挟まれた。

 モーツァルトのコンチェルトは、良くも悪くも、まさに最初から最後まで、「ピアニスト・内田光子」の感性によって染め尽くされた演奏、と言ってよかっただろう。
 良くも悪くも━━などという言葉は、わが国の生んだこの大ピアニストに対してはあまり使いたくない表現なのだが、正直に言うと、私は今日のモーツァルトには、些か疑問を抱いたのである。

 つまり、コンチェルトには、ソロとオーケストラによる琴瑟相和す悦びという要素の一方、ソロとオーケストラとのせめぎ合いの面白さという面も大切だったはずではないのか、という思いが頭の中をよぎり続けていたのだ。
 もともと内田光子の音楽は、モーツァルトの快活さという側面よりも、その音楽の底に流れる精神の光と影、時には魔性的な感性までを強く浮き彫りにするといったタイプの演奏であり、特に近年はいよいよその傾向が強くなって来たと思われる。今日の演奏でも、特に「第27番」ではそれが強く感じられ、この曲の陰翳の濃さをこれほどまでに浮き彫りにした演奏は稀ではないかとさえ感じられた。その点では彼女のピアノに賛辞を惜しまない。

 だが、彼女の指揮のもと、オーケストラが単独で語る個所においてまで最弱音が強調されたり、大きなリタルダンドが繰り返されたりといった手法が使われるとなると、モーツァルトが書いた音楽の対比、変化、移行の妙味が失われてしまい、曲そのものが単調で一本調子の印象になってしまうという結果を招くのではないか、ということ。

 「第25番」の第1楽章でも、総譜に指定されている「アレグロ・マエストーゾ」という言葉に含まれる威容や快活さ(アニマート、あるいはブリオ)といった要素が全く感じとれず、━━まことに申し訳ない言い方だが、彼女の指揮でオーケストラが演奏し始めた瞬間、その沈んだ無表情な、単調な音楽にびっくりさせられてしまったのである。

 そもそもコンチェルトは、「オーケストラのオブリガート付のソロ・ソナタ」であっては面白くない。やはりこの場合は、ソロとの対比を形づくる指揮者がいてくれたらな、と思わざるを得ない。
 従ってこの2曲のコンチェルトでは、内田光子のピアノのパートのみが映えた演奏だった。特にカデンツァの個所は圧巻で、できるならこのまま彼女のソロだけ聴いていたいな、と思わせたほどだったのである。なお彼女のソロ・アンコールはシューマンの「告白」。これも良かった。

 マーラー・チェンバー・オーケストラの本領は、シェーンベルクで発揮された。緻密に入り組み、寸時も緊迫感を失わないこの音楽の構成の凄まじさを余すところなく再現したこの見事な演奏は、腕達者な彼らならではのものだろう。
 聴衆は沸き、カーテンコールは「25番」と同じ数の3回にわたり、拍手は「25番」の演奏のあとより大きかったほどだった。しかも「25番」のコンチェルトのあとでは聞かれなかった最上階席からのブラヴォーが、このシェーンベルクでは爆発したのである。川崎のお客さんの受容力の幅広さを示すものと言えようか。

2023・10・30(月)オスモ・ヴァンスカ指揮都響のシベリウス

       東京文化会館大ホール  7時

 フィンランドの巨匠オスモ・ヴァンスカが客演、シベリウスの交響曲第5番、第6番、第7番というプログラムを指揮した。コンサートマスターは矢部達哉。
 ホールはほぼ満席状態で、ロビーの雰囲気も熱気にあふれていた。シベリウス愛好者も多く詰めかけていたと思われる。「ヴァンスカのシベリウス」がこれほど人気を集めているのは嬉しいことだ。

 東京都交響楽団が素晴らしい演奏をしてくれた。
 総じて言えば、北欧の空気━━実に曖昧な言葉であるのは承知しているが、幸いにもあのスカンジナヴィア半島を何度か訪れることができた私の勝手な感覚ということでお許し願いたい━━を如実に想起させる演奏という点では、先日のマケラとオスロ・フィルのシベリウスに一歩を譲るが、演奏の密度の濃さによりシベリウスの音楽の素晴らしさを感じさせてくれた点から言えば、このヴァンスカと都響の演奏の方が上回っていたような気がするのだが、如何だろうか。

 特に「5番」は、あのオスロ・フィルの方は、私の聴いた18日の演奏は、来日して最初のステージということもあってか、些か散漫な印象を免れなかったのだが、それに比べれば今日のヴァンスカと都響の演奏の方が、より強さに満ちていたように思う。
 第1楽章の終結部で、ひたすら追い上げて行く個所での緊迫感、第2楽章での霧の中を進むような主題の美しさ、終曲でひたすら高潮する音楽の強靭な力など、見事なものだった。
 ただ欲を言えば、最後の断続する和音群のパウゼの部分━━この総休止の静寂の雄弁さという点では、もう一つ何かが欲しいところではあったけれど。

 「6番」は、私の好きな曲なのだが、今日の演奏は、久しぶりにこの曲の良さを味わわせてくれたような気がする。ヴァンスカの指揮は、概して歯切れよく、リズム感も明快で、叩きつけるような激しさを感じさせるものだが、それがこの交響曲の一種茫漠とした雰囲気の音楽を程よく引き締め、円熟の「7番」を先取りしたような作品に仕上げていたのではなかろうか。私の印象では、今夜最も見事だったのは、この「6番」の演奏だったような気がする。

 この「6番」の演奏の印象があまりに強烈だったため、最後の頂点のはずの「7番」が、なんとなくエピローグのように感じられてしまった。いや、そんなふうに思ったのは、多分私だけだろう。非凡な演奏であったのはもちろんである。

 ヴァンスカのシベリウスは、やはりいい。今月は、久しぶりでいいシベリウスを受容することができた。

2023・10・28(土)佐渡裕指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

       すみだトリフォニーホール  2時

 今年4月に新日本フィルの音楽監督となった佐渡裕、彼の新シーズンの定期第1弾は、ハイドンの「交響曲第44番《悲しみ》」と、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」というプログラムで始められた。コンサートマスターは崔文洙。

 2曲とも、オーケストラの柔らかい響きが快い。音楽は佐渡裕らしく骨太で豪壮な構築だが、昔の彼のような力任せの演奏といった雰囲気はもう消えて、何か楽々とした余裕のようなものが増して来たことが感じられるようだ。
 今回は、1階席の上手側後方入り口に近い、バルコニー席の屋根がかぶさった所の端の席で聴いたのだが、ハイドンの交響曲では、オーケストラがこの上なく豊潤な音に聞こえた。

 ブルックナーも同様、第1楽章冒頭ではステージの奥の方から響いて来るホルンのソロがたっぷりと伸びやかな音だったのにまず魅惑され、次いで最強奏で轟きはじめたオーケストラの重量感と、厚みのある豊かな拡がりを持った音に、言いようのない安堵感を覚えた次第である。
 このトリフォニーホールは、場所によってかなり音が違うので、別の席で聴けばまた異なった印象を得たのかもしれないが、とにかく前述の席で聴いた限りでは、私は新日本フィルから久しぶりで安定した、かつスケール感のある演奏が聴けた━━と、そう思ったのは確かなのである。

 ただ、欲を言えば、この演奏には未だに大味なところもないとは言えず、それがこれからの課題だろうな、と思わないでもなかった。ともあれ、佐渡と新日本フィルの今後の共同作業に期待しよう。

2023・10・24(火)大西宇宙バリトン・リサイタル

         東京文化会館小ホール  7時

 「飛ぶ鳥落す勢い」にある大西宇宙のリサイタル。これは東急文化財団の主催で、「五島記念文化賞オペラ新人賞研修成果発表」と銘打たれている━━つまり留学成果報告リサイタルのようなものだ。ピアノの協演はブライアン・ジーガ―。

 彼のトークによれば、今回のリサイタルには「旅」のイメージが籠められている由で、その作品も仏、墺、英、独、露、伊━━と多岐にわたっていた。即ち、イベールの「ドン・キショットの4つの歌」で始まり、マスネの「ドン・キショット」からサンチョ・パンサの歌、コルンゴルトの「死の都」から「ピエロの歌」、ヴォーン・ウィリアムズの「旅の歌」、マーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌」、プロコフィエフの「戦争と平和」からアンドレイ公爵の歌、ヴェルディの「ドン・カルロス」(フランス語版)からロドリーゴの最後の歌、というプログラムである。

 しかもアンコールでは、ブロードウェイ・ミュージカルの「ラ・マンチャの男」━━ドン・キホーテということで今日の冒頭の2曲と呼応する━━と「ウェストサイド・ストーリー」から歌ったところが、ニューヨークのジュリアード音楽院に学んだ大西宇宙の面目躍如たるものがあるだろう。これで前記の「旅」には「米」も加わったことになる。

 今回のリサイタルでは、彼はオペラでは暗譜で、ヴォーン・ウィリアムズとマーラーの歌曲では譜面を前に歌った。
 オペラではドラマティックな歌唱が流石に迫力充分で、特にサンチョ・パンサが人々の嘲笑から主人を守って歌う「笑いたければ笑え、お前たちの言うこの気の毒な理想家を」や、ロドリーゴが親友ドン・カルロスに別れを告げる場面の歌などでは、客席を沸かす歌唱が聴かれた。

 一方、歌曲では当然ながらオペラよりは抑制された表現が聴かれたが、しかし「リュッケルトの詩による5つの歌」での、孤独の哀しさを囁くような最弱音で歌ったり、神の力を信じる個所を確信に満ちた最強音で表現したりという、歌詞の内容に応じた劇的な表現の変化は実に興味深く、魅力的なものを感じさせてくれた。

2023・10・23(月)レイフ・オヴェ・アンスネス ピアノ・リサイタル

        東京オペラシティ コンサートホール  7時

 久しぶりに聴くアンスネスのソロ・リサイタル。
 今日は、シューベルトの「ソナタ第14番」、ドヴォルジャークの「詩的な音画Op.85」から5曲、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」、ブラームスの「7つの幻想曲Op.116」というプログラムが組まれた。

 ソナタ形式のように流れの良い4つの作品の配列にまず感心させられたが、それら各々に当てられたアンスネスの表現の多彩さの、なんとまあ見事なこと。
 冒頭のシューベルトのソナタがやや暗い、たっぷりした陰翳のもとに弾かれて行ったのを聴くと、アンスネスのこの数年来の特徴ある音色がますます個性を発揮して来たな、という思いを強くする。だが、そういう音色が引き継がれたドヴォルジャークの「詩的な音画」には、何という色っぽさがあふれていたことか。

 そして更に感動させられたのは、「悲愴ソナタ」での表現の細やかさだ。短いフレーズや音型が反復されつつたたみかけるようにクレッシェンドし昂揚して行く個所では、そのひとつひとつに異なる表情が籠められていて、その反復が音楽の展開として明確な意味を感じさせるように演奏されて行くのである。アンスネスも凄いピアニストになったものだ、と思う。

 この演奏にあまりに聴き惚れてしまったために、最後のブラームスの印象がどこかに飛んでしまったのだが‥‥。

 アンコールはドヴォルジャークの「詩的な音画」から、先ほど演奏されなかった「春の歌」、ショパンの「マズルカOp.33-2」と「マズルカOp.17-4」が演奏された。このショパンも、いかにもアンスネスらしく、陰翳が濃い。

2023・10・21(土)尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

       フェスティバルホール  3時

 10月定期公演で、音楽監督・尾高忠明が指揮、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」(ソリストは岡本誠司)と、ウォルトンの「交響曲第1番」を演奏した。コンサートマスターは崔文洙。

 比較的小さな編成で演奏されたモーツァルトのコンチェルトでの、オーケストラの音色の軽やかで清楚なこと。昔の大フィル━━いまだにあの朝比奈隆さんの時代と比較されて云々されるのがこのオケの宿命だろう━━とは全く違う音を響かせるようになったこのオケのカラーを如実に示す例だ。岡本誠司の、光にあふれた闊達なモーツァルトとは対照的ながら、いい対話を繰り広げている。
 その岡本はアンコールで、モーツァルトの「トルコ行進曲」の賑やかなヴァイオリン編曲版を弾いてくれた。

 後半は、ウォルトンの「第1交響曲」。16型編成の大阪フィルが、怒号咆哮するその凄まじさ。このあたりは往年の大フィルを彷彿とさせる力感だろう。
 下手側の高所のバルコニー席で聴くと、金管群と打楽器群がひときわ強く響いて来るように感じられるが、とにかくこの「1番」は、極端に言えば最初から最後までフォルティッシモが続くといったような曲だから、ひたすらその轟音に精神を委ねるほかない。

 制御の巧みさでは定評のある尾高忠明の指揮だし、彼の十八番のレパートリーでもあるので、怒号も咆哮も、割れんばかりの大音響も、全て緻密に設計された演奏のはずである。
 それにしても面白い曲だ。もともと今回の大阪行きの目的のひとつは、これを聴くことにあったのだから。

 新大阪18時始発の「のぞみ」で帰京。

2023・10・20(金)鈴木優人の関西フィル首席客演指揮者就任記念演奏会

       ザ・シンフォニーホール  7時

 欧州ツアーから帰国したばかりの関西フィルハーモニー管弦楽団の、これは特別演奏会。
 音楽監督のオーギュスタン・デュメイ、首席指揮者の藤岡幸夫という指揮者陣に、今年から首席客演指揮者として鈴木優人が加わったが、その就任披露演奏会がこれである。今日のコンサートマスターは木村悦子。

 鈴木優人が関西フィルを指揮するのは3年前の6月にも聴いたことがあるが、彼もあの頃に比べ、さらに大幅な進境を遂げている。
 今回はラモーの「優雅なインドの国々」からの組曲(鈴木優人編)、ストラヴィンスキーの「プルチネルラ」(全曲版)、ブラームスの「交響曲第1番」という、鈴木の十八番のバロックから始めて新古典主義作品へ、最後にロマン派の交響曲━━という流れのプログラムを組んでいたが、これは賢明な選曲だった。前半の二つの作品では彼の最良のものが発揮されたし、またブラームスでは、彼のロマン派のレパートリーにおける目覚しい進境が聴かれたからである。

 「優雅なインドの国々」からは、あの有名な「未開人の踊り」を含む6曲が演奏された。オーケストレーションには鈴木優人の手が加えられているとのこと。比較的大きな管弦楽編成で、ちょっと落ち着かない感じもなくはなかったが、彼の「名刺代わり」としては絶好の曲目だろう。
 「プルチネルラ」は、森麻季(S)、鈴木准(T)、加耒徹(Br)の声楽陣も加わった全曲版による演奏で、わが国でこの版をナマで聴ける機会は稀である。この新古典主義系の作品は鈴木優人の個性に合うように思う。

 ただ、このような作品においては、関西フィルの演奏は粗くて、少々重いし、洒脱さにも不足する。これは、このオーケストラがこうしたレパートリーに慣れていないということもあろう。鈴木優人との呼吸がぴったり合うようになれば、関西フィルにとって新しい世界が開けて行くだろう。

 ブラームスは、予想を遥かに上回る見事な演奏になった。特に第2楽章以降には驚くほどしなやかな、瑞々しい響きと表情があふれていた。フレーズの一つ一つが明快に際立っているように聞こえるのは、さすがバロック音楽を得意とする鈴木優人ならではのものだろう。中間2楽章での、軽やかなタッチで追い上げて行く呼吸の見事さには、もう「鈴木優人のロマン派ものは・・・・」などとは言わせない、という気魄があふれているようだ。
 関西フィルもこのレパートリーはお手のもの、濃密な音で、あたたかい演奏を聴かせてくれた。

 アンコールには、「優雅なインドの国々」からの「未開人の踊り」が、先ほどよりも威勢よく演奏されたが、これに合わせて客席から手拍子が起こり、手の空いている楽員までその手拍子に参加していたのは、さすが大阪というか。

 終演は、9時半近くになった。今回はなかなか適当なホテルが取れず、結局、ザ・シンフォニーホールとフェスティバルホールの双方に近い中之島のリーガロイヤルホテルに宿泊したのだが(意外にハイコストではない部屋がある)、部屋には最近のホテルには珍しいラジオのチャンネルが付いていて、その「BGM」がクラシックをシームレスで流していたのには感動した。室内楽とソロ曲ばかりだが、悪くない選曲だ。今では忘れられたような曲である「ハイケンスのセレナード」が流れていたのには驚いた。

2023・10・19(木)クロエ・デュフレーヌ指揮東京フィルハーモニー交響楽団

       サントリーホール  7時

 フランスの若い女性指揮者クロエ・デュフレーヌが客演、リリ・ブーランジェの「春の朝に」、サン=サーンスの「ヴァイオリン協奏曲第3番」(ソリストは中野りな)、ベルリオーズの「幻想交響曲」を指揮した。コンサートマスターは近藤薫。

 このデュフレーヌという指揮者、私は初めて聴いた。指揮の身振りは激しいけれども、身体の動きはしなやかであり、柔かくてふくらみのある音をオーケストラから引き出す。東京フィルもよく合わせているので、ブーランジェとサン=サーンスの作品はすこぶる快く感じられ、フランス音楽はやっぱりこういう音で聴きたいものだ、などと思ってしまったほどである。

 一方、「幻想交響曲」のような劇的な曲想の作品では、彼女は打楽器をかなり強く響かせるが、全体としてはあまり刺激的な音は出さない。
 概して音楽の「芯」というか、「重心」というか、そういったものをあまり感じさせず、むしろ流麗さが印象に残る演奏なので、ドイツ音楽などではどういう指揮をするのかわからないけれども、とにかく好感の持てる女性指揮者だったことは確かである。

 サン=サーンスのコンチェルトでは、2004年生まれの若い女性ヴァイオリニスト、中野りなのソロを聴くことができた。桐朋出身で、現在はウィーン市立芸大に在学の由。昨年の仙台コンクールで優勝を飾ったのは彼女である。
 実にスケールの大きな、伸びやかで朗々とした演奏をするのには感心した。これで音楽に微細な表情と、豊かな感情が伴って来れば、素晴らしい奏者になるだろう。アンコールには、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番」からの「アレグロ」を弾いた。

 今日は、この2人の女性音楽家に対するブラヴォー(ブラーヴァ)の声が実に盛んだった。

2023・10・18(水)クラウス・マケラ指揮オスロ・フィルのシベリウス

       東京芸術劇場コンサートホール  7時

 マケラのシベリウスが、やっとナマで聴けた。「交響曲第2番」と「第5番」、アンコールは「レンミンカイネン組曲」から「レンミンカイネンの帰郷」。

 北欧のオーケストラが演奏するシベリウスには、独特の味がある。
 このオスロ・フィル、かつてのマリス・ヤンソンス首席指揮者時代に親しんだ音とはすでに大きく異なって、フィンランドの俊英指揮者マケラの個性を反映するようになっていた。それは明るくて明晰で、ノルウェーというよりはやはりフィンランドのイメージか。

 あの二つの国は全く雰囲気が違う。オスロの街に入っただけで、なるほどこれがグリーグを生んだ国なのか、という感がするし、フィンランドに行くと、なるほどこれはシベリウスだな、という印象を実際に受けるのである。実に不思議なことだが、これは現地を訪れた方なら、確かに、と思われるのではなかろうか。

 それはともかく、「2番」では、弦楽器の強い響きが目立った。リズムも、デュナミークの対比も、極めて強烈だ。前半2楽章はちょっと荒っぽい演奏だったが━━これは来日しての初日だったためもあるのか━━しかし後半2楽章での演奏の密度は素晴らしいもので、特に終楽章大詰めの頂点での体当たり的な昂揚感には圧倒的なものがあった。
 この「2番」での弦のシャープな響きは、やはり「5番」との対比の上で設定されたものだろう。事実、その「5番」になると、音には豊麗さとふくよかさが生まれ、豊かな和声感が生まれて来ていたのだ。

 こうして「5番」では、「2番」での厳しい闘争的な演奏との対比が形づくられていたが、これは、両者の曲想から言っても、極めて当を得たものであろう。いずれにしても、北欧の大自然とか、奥深い霧の世界とか、森と湖の国の静寂さとかいったような、かつてのシベリウスのイメージは、もう聴かれない。それよりももっと明快で割り切った演奏なのだが、これは世代の違いで、当然のことであろう。

 「レンミンカイネンの帰郷」では、マケラとオスロ・フィルは、冒頭から猛烈なエネルギーをあふれさせた。「死から蘇ったレンミンカイネンが母とともに懐かしい故郷に帰って行く」というよりも、まるで、故郷に向かって狂気のように突進驀進する英雄━━とでもいうか。あまりの飛ばしように、これでは故郷に着いた個所での昂揚感が生きないのではないかと危惧したが、そこはマケラ、実に巧く音色を変えて、大きな安堵感をつくり出すのに成功していたのだった。

 これら3曲の演奏を聴くと、マケラという指揮者は、まだ27歳だというのに、実にただならぬ才能を持った人だということを確信する。彼が欧州のオーケストラ界で引っ張りだこの存在だというのも当然であろう。

 オスロ・フィルの今回の来日ツアーは、今日が初日で、26日の熊本公演まで計7回が予定されている。うち東京公演は3回、そのうち2回がシベリウス・プログラム(同一曲目で、もう1回は24日)だ。今日のようなシベリウスなら、何度でも聴いてみたい。彼がオスロ・フィルのシェフである間に、もう1度来日して、シベリウス・ツィクルスをやってもらえないものか。

2023・10・17(火)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 前半にヒンデミットの「主題と変奏《4つの気質》」を、後半にハンス・アイスラーの「ドイツ交響曲」の日本初演を置くという、渋いけれども大胆なプログラム。
 特にこのハンス・アイスラー(1898~1962)の、声楽入りの1時間に及ぶ長さの「ドイツ交響曲」(1935年~1958年作曲)は、これが日本初演であり、今日の白眉ともいうべきものであった。

 ドイツ交響曲と言っても、作曲された時代から想像がつく通り、ドイツを賛美する音楽ではなく、ブレヒトの詩を主たる題材として、ナチスに虐げられたドイツの民衆、悲惨なドイツを描き出した作品だ。
 軍隊への呪詛、強制収容所の人々への激励、デモ指導者の葬送の行進、農民や労働者の歌など━━アイスラーは共産党員で、アメリカに亡命ののち、東独に戻った人である━━が織り込まれ、11の楽章からなる音楽にも、怒りに満ちているような、激烈な曲想が多い。「警察がデモを叩き潰した」と歌われたあとのオーケストラが突然中断するあたりの、聴き手を慄然とさせるような音楽の構成など、彼の劇的感覚の良さを思わせる。

 声楽のソリストには、アンナ・ガブラー(S)、クリスタ・マイヤー(Ms)、ディートリヒ・ヘンシェル(Br)、ファルク・シュトルックマン(Bs)という錚々たる顔ぶれが揃い、新国立劇場合唱団も出演したが、この豪華な声楽陣が作品の持つ魔性を充分に再現するのに与っていたことは言うまでもなかろう。
 戦争が身近に迫っているような今日の時代に、新たな意味を問いかけて来る作品の日本初演は、大いに意義のあることだと思われる。

 ヒンデミットの「4つの気質」は、弦楽とピアノのための30分ほどの作品で、ピアノ・ソロはルーカス・ゲニューシャスが弾いた。美しさはあったものの、ヒンデミットの音楽は、ごく一部を除いて、私にはどうも合わない。この曲も然りだ。ゲニューシャスはアンコールとして、ゴドゥフスキの「懐かしきウィーン」を弾いた。

コンサートマスターは長原幸太。

2023・10・16(月)パーヴォ・ヤルヴィ指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団

       サントリーホール  7時

 秋の来日オーケストラ・ラッシュがいよいよ本格化。大物のひとつ、P・ヤルヴィとトーンハレ管の演奏を聴く。
 プログラムはベートーヴェンの「献堂式」序曲、ショパンの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストはブルース・リウ)、ブラームスの「交響曲第1番」。
 なおアンコールでは、リウはショパンの「子犬のワルツ」を、オーケストラはブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」を演奏した。

 満席の盛況だが、ブルース・リウを目当てに聴きに来たお客さんも多かったのだろう。「ピアノ協奏曲」の終結では、リウが弾き終わった瞬間、オーケストラが未だ鳴っているにもかかわらず、客席のほとんど全部の場所から猛烈な拍手が沸き起こってしまった。こういうことはしかし、ショパン・コンクールならいざ知らず、遠来のオーケストラの演奏会の場合は、オケに対しては甚だ礼を失したマナーと言わざるを得まい。

 そのリウのショパンだが、敢えて言えばスタッカートのショパン━━とでもいうか、リズム感の明快な、影のない開放的なピアノの音色が印象に残る。もう少しふくよかさとか、余情とかいったものが欲しいところだが、これが今のショパン・コンクールを制圧するスタイルなのだというのであれば、それはそれで致し方ないのかもしれない。
 ただ、今日の演奏の場合、パーヴォの指揮というのは、ショパンのコンチェルトには必ずしも相性がいいとは言えないような気がするのだが、如何だろうか。

 チューリッヒ・トーンハレ管の方は、かつてのジンマン時代の音とは全く異なる、パーヴォの音に染められたオーケストラになって登場した。序曲にも交響曲にも、パーヴォの個性が強く沁み込んだ演奏が聴かれる。
 楽器のバランスなどに、時たま作為的なものが現れるのはパーヴォのスタイルだが、交響曲の冒頭で、精微に交錯する弦と管の主題が、異様な強音で叩かれるティンパニによってほとんど聞こえなくなってしまうような演奏構築には、どうも賛意を表しかねる。
 もっともそれ以降の個所ではティンパニはあまり暴れなかったので、ブラームスの管弦楽法と、叙情美と、昂揚感が率直に伝わって来ていた。

 「献堂式」は、演奏には至難の曲だ。どんな指揮者が手がけても、晩年のベートーヴェンの恐るべきエネルギーを巧く再現できた演奏にはなかなか到達できない。それを完璧に実現した演奏はただひとつ、レコードに入っているトスカニーニとNBC交響楽団だけであろう。

2023・10・15(日)びわ湖ホール モーツァルト:「フィガロの結婚」

     滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール  2時

 「オペラへの招待」シリーズのひとつ。ダブルキャストによる全6回公演の、今日は第5日。新芸術監督の阪哲朗が指揮、松本重孝が演出、乃村健一が舞台美術を担当している。

 今日の配役と演奏は、平野和(フィガロ)、山岸裕梨(スザンナ)、市川敏雄(アルマヴィーヴァ伯爵)、船越亜弥(伯爵夫人)、山内由香(ケルビーノ)、林隆史(ドン・バルトロ)、増田早織(マルチェリーナ)、有本康人(ドン・バジリオ)、佐々木真衣(バルバリーナ)、奥本凱哉(ドン・クルツィオ)、西田昂平(アントニオ)。びわ湖ホール声楽アンサンブル、日本センチュリー交響楽団。

 重厚なオペラや重厚な交響曲に浸り続けたあとに聴くモーツァルトの音楽が、なんと伸びやかで明快で美しいこと。こういう解放感に浸れるのも、演奏会通いの醍醐味というものだろう。
 もちろんこれは、阪哲朗の見事な指揮のせいもある。今日は特に、モーツァルトの円熟期の作品の特徴のひとつでもある、管楽器群の和声の美しさが浮き彫りにされた演奏が聴かれ、このオペラの魅力的な管弦楽法が十全に再現されていた。漸く日本でその真価を発揮しはじめた阪哲朗の指揮の良さが、今日も充分に示されていたと言ってもいいだろう。

 序曲や第1幕ではオーケストラが何故か粗く、また声楽陣の方も重唱やアンサンブルの調和が今一つ、という印象があったが、休憩を挟んで第3幕・第4幕に至るや、全てが一変した。
 たとえば第4幕のフィナーレ、ケルビーノとフィガロを追い払った伯爵がおもむろにスザンナ(実は伯爵夫人の変装)を口説きにかかる場面、オーケストラが突然Con un poco piu di motoとなり、第1ヴァイオリンが軽快で幅広い旋律を奏し、第2ヴァイオリンがその下で柔らかく波打つ個所での表情の豊かさ。あるいはそのあと、全員が「お許しを!」と繰り返し、伯爵が「ならぬ!」と突っぱねる個所での、ヴァイオリン群の表情に富んだ起伏。
 こういうところで聴かせた阪哲朗の指揮と日本センチュリー響のふくよかな演奏は、実に魅力的なものだった。

 歌手陣では、やはりフィガロ役の平野和の闊達で爽快な歌唱と演技が素晴らしい。彼のオペラは、今年は「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の夜警(☞2023年3月2日5日)と、「ドン・ジョヴァンニ」のレポレッロ(☞2023年7月17日)を聴いて来たが、その表現力の幅広さには感心する。
 また、伯爵夫人役の船越亜弥は、第2幕のカヴァティーナよりも、後半で調子を上げ、第3幕のアリアで本領を発揮していた。その他の人びとも、みんなそれぞれに安定していたが、ただ、重唱やアンサンブルの部分ではもう一つ緊密さが欲しかったところだ。

 松本重孝の演出も、演技は結構微細にわたっていて、芝居としての面白さは出ていただろう。権力を振り回す支配階級と市民との激突━━といったような演出路線ではないけれども、今回のような上演の場合は、これで充分だ。

 演奏が大詰めのAllegro assaiに入って盛り上がりはじめた時、音楽に合わせて手拍子を取りはじめた客がいたのには驚いた。幸い、あの日生劇場の「フィデリオ」(☞2013年11月24日)の時の手拍子オヤジと違い、リズムはある程度までは合っていたけれども‥‥。

2023・10・14(土)カーチュン・ウォン指揮日本フィル 10月東京定期

        サントリーホール  2時

 この秋から首席指揮者となったカーチュン・ウォンの指揮で、マーラーの「交響曲第3番」が演奏された。
 協演の合唱はharmonia ensembleと東京少年少女合唱隊、メゾ・ソプラノのソロは山下牧子、コンサートマスターは田野倉雅秋。なお、合唱はP席に、またメゾ・ソプラノのソリストはオーケストラの中、コントラバス群の前のあたりに位置していた。

 これは日本フィル渾身の力演という感。新しいシェフとの門出に湧き立つ楽員たちの気魄が噴出した演奏と言ってもいいだろう。金管群の咆哮は強靭だし、直線的で切れのいい音楽づくりは明快そのもの、各パートのソロも冴え、ダイナミズムと力感の点でも特筆すべきものがあった。終楽章の大詰めでは、ステージ全体に拡がる形で配置された7対のシンバル(ベルリオーズみたいだ)が輝かしい光を添えたが、これも今日の演奏の特徴を象徴するほんの一例に過ぎない。

 終演後のロビーやエントランスは、凄かった、とにかく凄かった、と絶賛の声であふれていた。中には、今年の日本のオーケストラ演奏会のベスト1に推したいくらいだ、という同業者もいたほどである。

 とはいうものの、私には、大方のように手放しで絶賛できる状態には少々距離がある。作品の解釈という点で、些かの疑問が残るのだ。それは、あまりに激烈ではなかったか? 
 私は今まで、この「3番」を、「第4交響曲」に先立つパストラル(田園)的な作品として意識していた。曲中に聴かれる弦の豊麗で優しい響き、室内楽的で万華鏡のような微細な各楽器の交錯の妙などは、慈しむように緻密に演奏されなければ聞き取れぬものではなかろうか。

 それにマーラーは、最初はこの交響曲を「牧神」と呼ぶことを考えていたというし、今も残る各楽章のイメージタイトルも、夏が来る━━牧場の花が語ること━━森の動物が語ること━━夜が語ること━━朝の鐘が語ること━━愛が語ること、となっているのだから、この交響曲は、雄渾壮大ではあるものの、やはり一種のパストラル的な、優しさ、愛らしさ、伸びやかさといったものを大きな特徴としていることが判るだろう。

 もちろんウォンも、その点については明確に認識していることをインタヴュー等で語ってはいるけれども、しかし実際の演奏を聴くと、そういう面よりも、この曲にむしろあの激しい曲想を持つ「第5交響曲」への先駆け━━とでもいうような特質を見出し、それに基づいて構築しているかのようにも感じられるのである。

 百歩譲って、ウォンが今日の演奏を「愛」と考えているなら、それはそれで一つの考え方だろう。現代の若い世代の東洋人指揮者が、マーラーの交響曲における「愛」の概念をこのような形で具象化しているとすれば、それも興味深いことではある。

2023・10・13(金)東京二期会「ドン・カルロ」

      東京文化会館大ホール  4時

 シュトゥットガルト州立劇場との提携公演として、ロッテ・デ・ベア(ウィーン・フォルクスオーパー芸術監督)が同劇場で2019年秋に演出した新プロダクションが上演された。
 第1幕に「フォンテンブローの森」の場面を復活させた5幕版によるイタリア語上演だが、モデナ版ともまた違い、独自の手が加えられている。
 今回は、横須賀で1回、札幌で2回、東京で3回━━というスケジュールがダブルキャストで組まれ、今日が東京初日公演である。

 出演は、樋口達哉(ドン・カルロ)、竹多倫子(エリザベッタ)、小林啓倫(ロドリーゴ)、ジョン・ハオ(フィリッポ2世)、狩野賢一(宗教裁判長)、清水華澄(エボリ公女)、畠山茂(修道士)、中野亜維里(テバルド)、前川健生(レルマ伯爵)、七澤結(天よりの声)他。東京フィルハーモニー交響楽団と二期会合唱団。指揮は、新鋭レオナルド・シーニ。なお、舞台美術はクリストフ・ヘッツァー、照明はアレックス・ブロックだった。

 とにかく、暗くて、重くて、悲劇の権化のような舞台だ。
 プレトークを行なった演出家ロッテ・デ・ベアによれば、舞台は30年後の世界で、地球温暖化はいよいよ進み、難民が増加し、宗教(キリスト教)が再び力を増し、その権力の中で自由が失われて行き、暴力と殺人が進み、主人公カルロはその中で精神を病んで行く━━という設定にされている。

 たしかにこれらは、決して読み替えではなく、もともと作品に内在している要素であろう。彼女の演出は、それを所謂グランドオペラ的な、豪壮華麗な色彩感にあふれたスペクタクルな舞台に仕上げるのではなく、権力、難民、戦争、政治の暗部、自由への欲求、闘争などの部分のみを浮き彫りにする解釈なのである。従って、暗く重い舞台になるのは当然である。
 「伝統的な手法で舞台をつくれば、ただ昔の人たちはそうだったんだな、ということだけで済んでしまう。だが自分はこの物語を、現代の世界で現実に起こっている事柄を象徴するものとして描き出したい」とデ・ベアは言う。ヨーロッパではもうずいぶん以前から試みられている手法ではある。

 そうした視点から見ると、今回の「ドン・カルロ」は、かなりよく出来た舞台と言えるのではないか。冒頭シーンで悲惨な難民の群れが現れ、「政略結婚により戦争が終って平和が甦るのなら、王族たちはどうか自分を犠牲にしてでもわれわれ難民を救って欲しい」とエリザベッタに迫る場面など、いかにも現代の難民の心理そのものだろう。事あるごとに現れては暴力をふるう警吏(軍隊)など、観ていると不愉快にはなるけれども、戦争が起こっている地域では、それは日常の出来事であるはずである。

 オペラをただの美しい娯楽と考えている人々には、劇中の火刑や処刑、暗殺といった場面はただの絵空事にしか感じられないので、今回のような現実的な演出は、概して嫌われることになろう。だが一方、世界のオペラ演出界に於いてはありふれたものになっている手法を全く無視するわけには行くまい。その意味で、二期会が続けているこの路線は、意義あるものであると私は思う。

 演出の細部について二、三メモすれば、例えばあのスペクタクルな「火刑の場面」は現れない。その代わり、その場面に先立ち、バレエ音楽のパロディとしてヴィンクラーの「プッシー・ポルカ」なる曲が演奏され、ここで人形が火刑にされるグロテスクな光景が展開され、カルロがそれを「幻想」として目の当たりにする、という場面が挿入される。
 これがカルロを狂気に導く決定的な引き金となるのは明らかであろう。そのあとのカルロの行動や言葉が常軌を逸したものになって行くのも、これで説明がつくというものである。
 もうひとつは、カルロを導く「謎の修道士」を、先帝カルロ5世の亡霊などという訳の解らぬ存在にせず、最後まで修道士として押し切ったこと(彼は殺される)。これで最終場面は、オリジナルのト書きよりも遥かに明解になっただろう。

 また、ちょっと面白い新解釈は、エボリ公女を異様な目つきで窺いつつコーラスにも参加していた女性が、実はエリザベッタのお付きの伯爵夫人で、エボリ公女をスパイする役目を持っていたという設定。その伯爵夫人が王から罰せられて追放されるという極端な処分に遭う(今回の演出では衛兵から殴る蹴るの暴行を受けて、多分殺されるのだろう)のも、この理由の方が筋も通る。

 その他、フォンテーヌブローの森の場面で、カルロとエリザベッタがベッドシーンを見せる設定などは、2人がすでに深い関係を持ったことを強調するだろう。またフィリッポ2世が「妻(エリザベッタ)はわしを愛してはおらぬ」と嘆くアリアを歌う有名な場面でも、ベッドで彼女がそっぽを向いて寝ているという光景を加えることによって、より具体的な描き方になるだろう。
 まあ、こんなのは、無くもがなの余計な設定と言えるかもしれないし、第一、フィリッポ2世がパジャマ姿であのアリアを歌うなどという光景には私も些か辟易せざるを得ないのだが、権力者の裏側を描き出すという点では、より具体的になったかもしれない。

 終演後のカーテンコールでは、演出家にブーイングも飛んだ。日本の歌劇場では久しぶりのブーイングである。演出家もしてやったりの表情で、反応アリ、と喜んだのではなかろうか。欧州系の演出家は、おざなりの拍手よりも、積極的な賛否の反応を歓迎するからである。

 音楽的な面のことを書く余裕がなくなった。若いレオナルド・シーニの指揮はなかなかいい。東京フィルが引き締まった演奏を聴かせてくれた。歌手陣の中では、革命家ロドリーゴを歌った小林啓倫が最も印象に残る。

2023・10・12(木)金沢の沼尻竜典指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

      石川県立音楽堂コンサートホール  7時

 日本オーケストラ連盟が各オーケストラと共同で主催する「オーケストラ・キャラバン」の一環。大阪フィルが石川県立音楽堂のホールでどのような音を聴かせるかに興味があったので、北陸新幹線に飛び乗って聴きに行く。

 6時15分から2階ホワイエでプレトークがあると聞き、覗いてみる。バー・カウンターがある場所なので、ジュースやコーヒーを前に話を聞いている人も多く、寛いだ楽しさが感じられる。
 トークは、大阪フィルの演奏会だから、てっきり大阪フィル(沼尻竜典マエストロ、福山修事務局長)だけのプレトークかと思っていたら、何とこの石川県立音楽堂をホームグラウンドとするオーケストラ・アンサンブル金沢(アーティスティック・リーダーの広上淳一マエストロ、床坊剛ゼネラルマネージャー)も一緒に台上に乗って喋っている。そして先に大阪フィル側が退場すると、そのあとはOEK側がオケのPRをして締めて行った。何ともしたたかなこの戦略には、なるほどと感心させられ、笑いを誘われた次第。

 さて、肝心の大阪フィルである。今回、沼尻竜典の客演指揮により行われているキャラバンは、ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲、サン=サーンスの「チェロ協奏曲第1番」(ソリストは佐藤晴真)、ブラームスの「交響曲第4番」というプログラム。コンサートマスターは崔文洙。

 オーケストラは弦14型編成で乗り込んで来て、序曲と交響曲ではその編成で演奏した。この石川県立音楽堂は、フェスティバルホールのような巨大なホールではないので、今回の編成は当を得ていたであろう。オーケストラの響きが、いつもより明るく感じられたのはホールのアコースティックの所為か、それとも沼尻竜典の指揮の所為か。

 「4番」は、第2楽章の半ばから勢いに乗ったという感だ。同楽章後半の弦の厚みある音、第3楽章での強い推進力、第4楽章での沈静と昂揚の交錯などが印象に残ったが、力感は充分で、そのへんが大阪フィルらしい。
 ただ、大阪での定期公演や、東京での演奏で聴く大阪フィルに比べると、この「4番」の性格からみれば、やや自由な感じの演奏であったと言えるかもしれない。それでも冒頭の序曲に比べれば、よほど神経を行き届かせた演奏に聞こえたことは確かであろう。
 そして、アンコールで演奏した、同じホ短調のドヴォルジャークの「スラヴ舞曲作品72の2」が耳に残る。

 協奏曲では、佐藤晴真の瑞々しい生気にあふれた伸びやかな演奏が快い。曲の終結では大いに昂揚し、オーケストラもサン=サーンスの作品としてはダイナミック過ぎるほどの盛り上がりで頂点をつくり上げて行った。

2023・10・11(水)ヘンデル:「ジュリオ・チェーザレ」

       東京オペラシティ コンサートホール  4時

 「鈴木優人プロデュース BCJオペラシリーズVol.3」と題された公演。

 ヘンデルのオペラ「ジュリオ・チェーザレ」(ジュリアス・シーザー)のセミ・ステージ形式。
 鈴木優人の指揮とチェンバロ、バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の演奏、佐藤美晴の演出、稲葉直人の照明、臼井梨恵の衣装。
 出演はティム・ミード(チェーザレ)、マリアンネ・ベアーテ・キーラント(ポンペイウスの妻コーネリア)、森麻季(クレオパトラ)、アレクサンダー・チャンス(その弟トロメーオ)、大西宇宙(その腹心アキッラ)、加藤宏隆(護民官クーリオ)、藤木大地(召使ニレーノ)、松井亜希(ポンペイウスの息子セスト)。

 これは、力作、成功作と言っていいだろう。まず鈴木優人のスピーディで切れの良い指揮と、BCJの張りのある演奏が快く━━音楽には登場人物の心理の変化に即した表情の変化と陰翳がもう少し欲しいという気はしたものの━━ヘンデルの音楽の良さを充分に感じさせてくれた。
 また、久しぶりに観る佐藤美晴の演出も要を得て、ステージ中央に小さなピットのように枠で囲ったオーケストラを配置、その周囲に演技空間を置き、時にユーモアを交えた人物の演技により闊達な舞台を繰り広げ、ストーリーを極めて解り易く描き出していた。

 しかも、歌手陣が揃って快演だったので、音楽的にもすこぶる聴き応えがあった。チェーザレのミード、コーネリアのキーラントの風格は言うまでもなく、敵役トロメーオのチャンスのアクの強い歌唱と演技もいい。そして、強靭なバリトンにより特に前半で凄味を利かせたアキッラの大西宇宙、家政夫のミタゾノみたいな雰囲気を撒き散らして笑いを誘い怪演したニレーノの藤木大地。特にクレオパトラ役の森麻季の華麗で鮮やかな歌唱は素晴らしく、客席を沸かせていた。
 ただ、セストの松井亜希の第3幕における演技だけは、ちょっと解釈に苦しむところがあったが━━。

 ともあれこうして、特に中盤から後半にかけては、全く長さを感じさせぬ演奏と舞台になっていた。
 休憩2回を含み、終演は8時半。

2023・10・7(土)沖澤のどか指揮東京交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 「名曲全集」シリーズの一環。日の出の勢いにある沖澤のどかが客演、ストラヴィンスキー・プロを指揮した。
 「プルチネッラ」組曲、「詩篇交響曲」(NHK東京児童合唱団、二期会合唱団が協演)、「ペトルーシュカ」(1947年版全曲、ピアノは長尾洋史)。コンサートマスターは小林壱成。

 3曲とも、実に整然たる演奏。沖澤のどかは、時に激烈な指揮をすることがある。例えば読響を指揮した時のシベリウス(☞2021年10月10日)がそうだった。その一方、極めて端整で造型的な演奏をつくることもある。その基準がちょっと掴み難いこともあるのだが、今日の演奏ではとにかく端整な、几帳面なほど正確なストラヴィンスキーが立ち現れていた。

 ただ、そういうスタイルの演奏は、新古典主義系の作品ではツボに嵌るが、初期の原始主義時代の作品である「ペトルーシュカ」の場合は如何なものだろうか? 
 もし彼女が意図的に、「ペトルーシュカ」にのちの新古典主義スタイルの作品の萌芽を感じ取って、それを浮き彫りにしようとしていたのなら、その意欲的な試みの是非についての議論が必要となるだろう。

2023・10・6(金)ギュレル・アイカル指揮イスタンブール国立交響楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 文化庁主催、日本オーケストラ連盟主催の「アジア オーケストラ ウィーク」の一環。

 このオーケストラは2003年に来日し、小松一彦の指揮で演奏会を行なっているが、その際に聴いたかどうか、記憶が定かではない。
 ルーツを辿れば1827年に創立されたオーケストラとのことだが、組織的には1945年に設立されたイスタンブール市管弦楽団が1972年に現名称となった由(NAXOS掲載のプロフィールによる)。

 今回はギュレル・アイカルの指揮で、芥川也寸志の「弦楽のための三楽章《トリプティーク》」、ウルヴィ・ジェマル・エルキンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはチハト・アスキン)、チャイコフスキーの「交響曲第4番」というプログラム。
 他に、アスキンがソロ・ヴァイオリンで演奏したアンコールは、彼自らの編曲になるという日本の曲「さくら」。オーケストラのアンコールは、エルキンの「コチェクチェ」(と会場には掲示されていたが、他に「キョチェケ」と日本語表記している資料もある)。

 とにかく、恐ろしく変わった音色を出すオーケストラだ。どの曲の演奏においても、弦の響きは極度に硬く、しかも濃厚な脂ぎった色彩感に満たされている。芥川也寸志の作品が、聴き慣れた「日本の音楽」でなく、まるで中近東かどこか━━たとえばアルメニアの作品であるかのようにさえ聞こえたのは、その特殊な音色による演奏の所為だったのではなかろうか。

 アスキン編曲と演奏の「さくら」も、編曲そのものはかなり凝った手法だが、実にギラギラした、異様な音色と表情に満たされていた。

 チャイコフスキーの「第4交響曲」が、極めてごつごつした構築で、あまり他に例のない個所で音を切るなどというのはもちろん指揮者の解釈によるものだろうが、オーケストラの音色や表情などにも、何か形容し難い、濃厚で土俗的な━━とでも言ったらいいのだろうか、とにかく的確な表現が見つからないのだが━━あの賑やかなトルコ軍楽隊の演奏に聴かれる音色(リズムではない!)をつい連想してしまうようなイメージが備わっていたのではなかろうか(これは同楽団のCDからは伝わって来ない)。良し悪しの問題ではなく、お国柄といったものの面白さを感じさせてくれた今回の演奏だった。

 なお、アンコールでの「コチェクチェ」だか「キョチェケ」だかはともかく、いくつかの個所に、エネスクの「ルーマニア狂詩曲第1番」を連想させる曲想があったのが、作曲者がイスタンブール(旧コンスタンティノープル)出身であることを考え合わせると、興味深いことだった。

2023・10・4(水)新国立劇場「修道女アンジェリカ」「子どもと魔法」

      新国立劇場オペラパレス  7時

 新国立劇場の新シーズン開幕公演。オープニング公演としてはちょっと変わったプログラムだが、「母子の愛のダブルビル」というコンセプトを聞いて、なるほど、そういう捉え方もあるか、と納得した。
 指揮は沼尻竜典、演出が粟國淳、美術が横田あつみ、照明が大島祐夫である。オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団。

 第1部は、プッチーニの「修道女アンジェリカ」。キアーラ・イゾットン(アンジェリカ)、斉藤純子(公爵夫人)、塩崎めぐみ(修道院長)その他の歌手陣。
 第2部がラヴェルの「子どもと魔法」で、クロエ・ブリオ(子ども)、斉藤純子(お母さん)、田中大揮(肘掛け椅子他)、盛田麻央(安楽椅子他)、三宅理恵(火他)、河野鉄平(柱時計他)その他の歌手陣。

 アンジェリカのイゾットンは少し叫び過ぎの感があったけれども、愛する子の死を聞いた母の絶望を、激しい感情の爆発の形でよく表現していただろう。
 いっぽう、冷徹な公爵夫人を歌い演じた齊藤純子は、演技にはもう少し凄味が欲しかったものの、歌唱の上ではアンジェリカを圧迫する強い存在感を聴かせてくれた。彼女は「子どもと魔法」では一転して優しいお母さんの役柄を受け持ったが、但しこちらの方は出番が少ない。

 今回の二つのプロダクションで際立ったのは、回転舞台やセリなど、劇場の持つ舞台機構を久しぶりに活用したことだろう。新国立劇場にはせっかく優れた舞台機構が備わっているのに、開館以来、それを使いこなした演出があまりに少ないことを残念に思っていた。今回の「子どもと魔法」では、そのセリと映像とを巧く組み合わせ、メルヘン的な楽しさを出すのに成功していたと思われる。

 ただ、不満を言えばこの「子どもと魔法」、演出に━━いや、振付か?━━に少々雑然とした印象が感じられなくもなく、とりわけ物語の転回点となるはずの、子どもがリスの傷の手当てをしてやったことに動物たちが驚き、いっぺんに子どもの味方になってしまう個所での描写があまり明快でなかったことに物足りなさを感じた次第である。またこの部分での字幕にも、もっと主語を明確にするなどの工夫が欲しかったところだ。

 西のびわ湖ホールで盛名をとどろかせた沼尻竜典が、やっと新国立劇場のシーズン開幕公演を指揮するという世になったのは、祝着である。欲を言えば音楽にもう少し滔々とした、一貫した流れがあったらとは思ったが、今後に期待しよう。彼は来月も日生劇場でヴェルディの「マクベス」を指揮することになっている。

2023・10・1(日)アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル

       ミューザ川崎シンフォニーホール  5時

 マチネが終ってから一度自宅へ戻り、夕方にまた川崎へ出直す。
 こちらは、プログラムは予め発表しない、会場に掲示もしない、曲目はシフがステージ上で紹介しながら演奏して行く━━という形のリサイタル。

 実際に演奏されたのは、第1部にバッハの「ゴルトベルク変奏曲」の「アリア」と「フランス組曲第5番」、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ジーグK.574」、ブラームスの「間奏曲Op.117」3曲と「間奏曲Op.118の2」、シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」、第2部にバッハの「半音階的幻想曲とフーガ」、メンデルスゾーンの「厳格な変奏曲」、ベートーヴェンの「ソナタ《テンペスト》」で、更にアンコールとしてバッハの「イタリア協奏曲」第1楽章、モーツァルトの「ソナタ ハ長調K.545」第1楽章、シューマンの「楽しき農夫」、という具合。
 1曲ごとにシフの話と、その通訳が入るので、コンサートは長引き、終演は結局8時20分頃になった。正味3時間、長い演奏会だった。

 アンコールを除くプログラム本体は、J・S・バッハの音楽と、それが後世に及ぼした影響━━といったような流れが基調となっており、また第2部は「ニ短調」で統一されるというように、ひとつのコンセプトに貫かれた選曲だったことは確かであろう。作品群の性格から、シフの演奏も総じて瞑想的で思索的なものになった。

 「テンペスト」も、普通のリサイタルにおける所謂「ベートーヴェンのソナタ」としての演奏とは若干ニュアンスの異なるスタイルになっていたのが面白かったが、それは第3楽章が遅いテンポで弾かれたためもあったかもしれない(シフは、普通のピアニストはみんなこれを速すぎるテンポで演奏したがる、と批判していた)。
 そして、アンコールの3曲で、シフはプログラム本体の重厚でシリアスな雰囲気を見事に打ち払う。なかなか気の利いた選曲というべきだろう。

 シフの話は興味深い内容だったけれども、本人もボソボソ喋るし、何より通訳がプロではないので話し方にも明晰さを欠く、といった具合なので、3時間にわたり気持を集中させるのは些か疲れたのは事実であった。
 通訳というものは常に明晰明快でなければならず、曲名や音楽用語など、あまり詳しくない人にも完璧に解るように語らなければならぬ責任がある。その意味では、今日の通訳氏は全くそれに向いていなかったと言わなければならない。

 もっとも、音楽史にも精通しているような一流のプロの通訳に、3時間の本番中ずっとシフのうしろの椅子に座っているような滅私奉公ができるはずはないから、その点では今日の通訳君はよくやってくれたということになろう。

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